今年、7月29日NHKで放送された「アインシュタイン消えた“天才脳”を追え」。後日、未編集素材を大幅に加えた特別編も放送されており、それも合わせて、しっかり見させて頂きました。
1955年76歳で亡くなったアインシュタインですが、この時、入院先の病院で病理解剖を担当したハーベイ医師が、アインシュタインの才能の秘密に迫りたいと、なんと、密かに脳を摘出…。これを知った長男は激怒しますが,アインシュタイン自身が生前,自分の遺体が科学研究に付されることに積極的な発言をし、同意していたため,最終的には研究成果を専門誌に発表するということを条件に承諾します。
ところがハーベイは天才脳をどのように研究したら良いのか分からず,そのまま失踪し,40年・・・。脳はいくつにも切り刻まれ、研究と論文発表を条件に更に少なくとも18人の研究者の手に分散し、長い年月が流れる中で、その多くが行方不明に…。
今回のこのNHKスペシャル…きっかけは、番組スタッフが、3年前に教育関係の取材をしているときに、たまたまアインシュタインの脳が密かに摘出さたのを知ったことでした。当時の記事や科学論文などを調べていくと、200以上に切断された脳の大部分が、世界各地に散逸したまま行方不明である実態が見えてきたというのです。
「あれだけ偉大な天才の脳が、どこにあるのかもわからない状況で良いのだろうか…」、そう思い、脳の所在を確かめるとともに、最新の科学技術で知性の秘密にどこまで迫ることができるのかチャレンジしてみたいと考え、企画されたとのこと。番組はNHKとは思えない展開で話が進められ、とても興味深く見させて頂きました。
調査を続ける中で、やがて、ハーベイが残した大量の資料が今も保管されている事が分かります。 交渉の末、保管場所の詳細を明かさない事などを条件に未公開資料の撮影が特別に許されます。脳の摘出後に撮られたとみられる写真。脳は更にブロック状に細かく切断されており、 その一部始終を捉えた写真は 300枚超。
更にハーベイは脳を切断する際にロードマップを作成していました。どのブロックがどこに位置するのか、一つ一つ番号が振られていました。脳のブロックは全部で240。ハーベイは各ブロックの一部から薄い切片を切り取りスライドを作成していました。顕微鏡を使いどこかに特徴がないか、しらみつぶしに解析を試みていたのです。
残念ながら、研究成果が得られた形跡はなく、2007年ハーベイは94歳でこの世を去っていきます。ところが、彼の遺品の中に脳のブロックは一つもなく全て消え去っていたのです。脳は一体どこへ行ったのか・・・。
アインシュタインが晩年を過ごしたプリンストン。ここで、脳の行方に関する重大な手がかりが得られます。地元の医師フレドリック・ラポア。プリンストンの英雄アインシュタインの脳が分割されて人手に渡ったと聞き、長年行方を調べてきたというのです。調査で掴んだのはハーベイが信頼を寄せ最も多くの脳を託したという人物の情報。それは、プリンストン在住のある医師でした。
番組スタッフは、その医師に接触を図る事にし、取材の目的をメールで伝え、連絡を待つ事にしました。5時間後、返信があり、翌日、30分間の面会が認められます。医師との面会はカメラなしでの交渉となりますが、ちゃんとした取材には応じられないという回答が改めて伝えられ「そっとしといてほしい」という本人の気持ちが強く、取材は途切れてしまいます。
それでも、完全に切れた訳じゃないのからと、僅かな取材の可能性を信じ、交渉は続けられる事に・・・
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ドイツが原爆を開発するという現実・・・。アインシュタインは、仲間の勧めでアメリカ大統領に手紙を書きました。
「緊急の行動が必要な状況です。きわめて強力な新型爆弾が製造される可能性があります。」
この手紙を機に、原爆を開発する「マンハッタン計画」が始まりましたが、1945年、アインシュタインが66歳の春には、ドイツの敗北は明らかになっていました。アインシュタインは、再びアメリカ大統領に手紙を送り、原爆開発の中止を訴えます。しかし、この訴えが届く事はなく・・・そして・・・私の故郷、広島に原爆投下・・・それを知ったアインシュタインは、ひどく落胆したそうです…。
戦後、アインシュタインは、科学者が先頭に立って平和を実現しようという委員会を発足。世界全体で核兵器を管理する体制が必要だと訴えます。終戦から3年、アインシュタインは、アメリカに来ていたある日本人を訪ねます。日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹でした。部屋へ来るなり、手を固く握って涙を流し、「罪のない日本人を殺すことになって申しわけない。」と泣いたといいます。
晩年、アインシュタインは、統一理論と核管理の実現に全てを注ぎました。しかし、そのどちらも達成することなく・・・1955年4月18日、亡くなりました。・・・76歳の生涯でした。そんなアインシュタインの葬儀は、驚くほど簡素なものだったそうです。参列したのは、家族や友人など僅か12人・・・遺言によって墓は作られず、遺灰は川へ・・・。シンプルな美しさを追い求めたアインシュタインらしい最期でした。
若くして科学の常識を打ち破る大発見をしながら後半生は苦い経験をしたアインシュタイン・・・。そんなアインシュタインは、若者にこう残しています・・・
「戦争中、科学は人々に毒を盛りました。平和な時には、私たちの生活を忙しくしました。人間を機械の奴隷にしたのです。あなたが図形と方程式を解いている時、このことを決して忘れないでください。」
アインシュタインは、1922年のノーベル賞を取ったことは有名ですが、その理由については誤解している人が多いかもしれません。たいていの人は、「アインシュタインは相対性理論で有名なので相対性理論でノーベル賞を取った」と思っているでしょう。しかし、それは誤解です。
なんと、相対性理論は難しすぎて、従来の物理学を根底から変えてしまうあまりにも革新的な理論だったので、頭のかたいノーベル賞の選考委員は、評価して良いものかどうか判断できなかったのです。とはいえ、世間では「相対性理論はすごい」と評判は沸騰する一方で、ノーベル賞を出さないというのはとても不自然な状況に…。更に、アインシュタインがユダヤ人であったため、そこに民族差別の問題が複雑にからみ、選考委員はすっかり追い詰められてしまったというのです。
こうした窮地から脱するために、選考委員がとった苦肉の策が、安全策として光量子仮説に対してアインシュタインにノーベル賞を与えることだったと言われています。キュリー夫人のように、ノーベル物理学賞の後にノーベル化学賞を受賞するということはありますが、制度上、ノーベル物理学賞を一度でも受賞したら、同じ物理学賞を再度、受賞することはできないんだとか…。かくして選考委員は、相対性理論の評価という重責から逃げ出すことに成功した??そうですが…。
ところが、アインシュタインは、ノーベル賞受賞記念講演であえて「光電効果」ではなく「相対性理論」をテーマにしました。自分の嫌いな量子論でノーベル賞を取ったことが面白くなかったからなんだとか…。なんとも、こんなユニークなエピソードもあったんですね。
第5回まで突入したアインシュタイン【深掘り】シリーズですが、まだ終わらず、死後の世界についても書かせて頂きます。続きは、再び姉妹サイトへ・・・
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(姉妹サイトからのつづき・・・)
注目すべきは「特殊相対性理論」。
「もし、光と同じスピードで進めば、光が制止した状態を見られるのでは?」
16歳にして、そう考えたアインシュタインは、思考実験を繰り返します。そうして、たどり着いたのが、特殊相対性理論だったのです。絶対的なものと考えられていた時間や空間が、相対的であるとするものでした。
「自然は驚くべき成り立ちをしている。私たちの使命は、自然の中にある数学的な構造を見つけ出すことだ。」
1907年28歳・・・
「特許局の椅子に座っている時、突然ある考えが浮かんできた。それは、私の人生で最も幸福なひらめきだった。」
それは、「一般相対性理論」特殊相対性理論をより普遍化したものでした。その後8年をかけ・・・1915年36歳にして「一般相対性理論」を完成させます。そこで示されたのは、”質量があると空間がゆがむ”というものでした。しかも、その歪みによって光さえも曲がってしまうという従来の常識を打ち破るもの…。これまで実験や観測を重視していなかったアインシュタインも、実証されることを望みます。
1919年、40歳で皆既日食時に観測。一般相対性理論によれば、太陽の向こうにある星の光は、太陽の周りの空間がゆがんでいることによって本来の位置からズレて見えるというのですが・・・観測の結果は、見事に一般相対性理論の正しさを裏付けるものとなりました。そして、このニュースは、世界中を駆け回ります。
”人類の思想学の中で、おそらくもっとも偉大な業績だ。”
アインシュタインは、一躍その名を世界に知られることとなります。一般相対性理論は、ブラックホールの存在を示唆するまで、今も宇宙の神秘を解明する上で大きな役割を担っているものなのです。
思考実験だけで実際の実験をしなくても済んだのは、彼の空間思考力がずば抜けていたいたから。それは、後にアインシュタインの脳内を調べたときに分かったこと。アインシュタインは、こう語っていました。
「大切なのは知識より想像力」
しかし、コメンテーターとして参加されていた益川先生は、こう語られていました。
「様々な体験や知識があるからこそ、想像力が生まれた」
確かに知識や体験がない状況で、そんな事が考えられたかというなら、それは不可能だったに違いありません。…というか、普通の人は、そんな所に想像力を使う事もないのでしょうけれど…。
たぐいまれなる空間思考力…脳内を覗いてみたいものです。脳内・・・脳みそ・・・そう、ここで実は脱線したいところなのですが、それは、この話が一通り終わるまで我慢したいと思います。
相対性理論を発見したアインシュタインには、信念がありました。
「自然界は、単純で美しい数式で成り立つ」
しかし、この信念からアインシュタインは最先端の科学に異議を唱えるようになります。彼を悩ませたのは、量子力学でした。相対性理論が宇宙という広大な世界を扱うのに対し、量子力学は、分子・原子・素粒子などミクロの世界を研究するものです。
さてさて、続きも3回を終え4回目に突入しようとしていますが、④は、またまた姉妹サイトに移動します。ところで、姉妹サイトの前回パスワードの答えですが、カエサルの換字表は、見つけられましたか?答えはこの様になります。
シーザーの換字表(カエサルの換字表)で特定の文字数…今回は10文字シフトなので、AのところにKが来るように10文字ずらしていきます。そうするとAがK、CがM、IがS、SがC、TがDとなるので、dkmdsmcは、tacticsという答えとなります。分かりにくい方、表が見つけられなかった方は、次回姉妹サイトで丁寧に解説させて頂きますね。では、また・・・。
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少し前になりますが、今年の2月1日放送のザ·プロファイラー『天才科学者の栄光と悲劇~アインシュタイン』の回、ご覧になられましたか?…と言いつつも、私自身、見たのは2回目の再放送10月2日の録画でしたが…
アインシュタインと言えば知らない人はいないと思いますが、その人物像について、深く知る機会はあまりありませんでした。そんな意味でも、今回のこの番組は、とても興味深く鑑賞する事が出来ました。
かつて、チャップリンは、ある人物にこう語りかけたそうです。
「私が拍手喝采を浴びるのは、私のしていることが誰にでも理解できるから。
あなたが拍手喝采を浴びるのは、あなたのしていることが誰にも理解できないから。」と。
チャップリンがこう語りかけたのが、今回の主役アインシュタイン。言われるまでもなく相対性理論で知られる、あの舌を出した写真が印象的な天才です。
昨年、2枚のメモが2億円余りで落札されたお話は、ニュースでも取り上げられていましたから、ご存知の方も多いかと思います。そのメモは、アインシュタインが東京のホテルに滞在した際、ベルボーイにチップ代わりに手渡したもので、そのうちの1枚には、こうありました・・・
「意思のあるところに道は開ける。」
20世最大の天才と呼ばれたアインシュタインは、相対性理論以外にも数多くの理論を打ち立て、現在のスマートフォン、パソコン、DVD、カーナビ・・・こうした身近な製品にも、アインシュタインの理論が応用されているそうです。
このように、アインシュタインが数々の理論を打ち立てることができたのは、従来の科学の『常識を疑う姿勢』にあったというのが、今回の話の始まりであり、その出発点は、権威に対する反発だったと・・・。
1879年、アインシュタインは、ドイツにあるユダヤ人家族の長男に生まれました。一人空想にふけるのが大好きで、”退屈な神父”と呼ばれるほど無口な少年だったそうです。分かりやすい表現ですよね。アインシュタインはこう語っています。
「私は言葉で考えようとはしなかった。まずは映像が浮かび、それを言葉に書き換えようとした。」
子供の頃、アインシュタインが熱中したのは、トランプを組み合わせて積み上げ、家を造ることでした。私なんぞがやっても5階がいいところですが、なんとアインシュタインは、14階まで作る集中力と粘り強さを持っていたと言います。科学に興味を持ちだしたのは5歳の時で、コンパス(方向磁石)の針が常に一定の方角をさすことに衝撃を受けてからだそうです。5歳ですかぁ・・・。5歳ですよ。
「物事の背後には、深く隠された何かがある。」
1885年、アインシュタインはユダヤ人でありながら、家が近かったからということでカトリックの小学校に入ることになります。しかし、ユダヤ人はたった一人。当然の様に「いじめ」にもあい、孤立していきます。
「自分がアウトサイダー(部外者)だと自覚するには、十分なものだった。」
アウトサイダーだと自覚したアインシュタインは、その後、自分の研究を進める時にも他のグループに参加したり、他の人がするようなことをしたりせず、人と距離を置くようになりました。それでも成績は良く、12歳の頃には独学で幾何学や代数学を学ぶほどに。12歳ですよ。しかも、独学って・・・マジですかぁ・・・。この時期、科学の本に熱中したことがその後の彼に大きな影響を与えていきます。
「科学の本を読むうちに、聖書の話の大半は真実ではないと確信した。この経験から、あらゆる権威に対し、疑いの目を向けるようになった。」
なるほど、それが権威に対する反発の始まりでもあった訳ですね・・・(***つづく***)
さて、今回も、姉妹サイトと2度目の連続ものという展開で書かせていただきます。ただ、姉妹サイトの方は、時々暗号解読のパスをかけており、そのパスを解く問題が、その前の回のブログに出題されていますので、同じ問題を、こちらにも書かせていただきますね。
今回はシーザー(カエサル)の換字式暗号を扱っています。ちなみにこの換字式暗号は、アルファベットの順番をずらして、文字をお置き換えていく方法で、シーザーの換字表(或いは、カエサルの換字表)と呼ばれるものです。ヒント付きですので、ネットで換字表さえ見つければ、簡単に解けると思います。
ということで、問題は、こうです。お馴染みシーザーの換字表(カエサルの換字表)から10文字シフトで・・・
【dkmdsmc】 を正しい文字に戻してお答えください。
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9月27日放送のカンブリア宮殿『フランスパンの伝道師 日本の食卓に起こした革命と新挑戦!』の回、ご覧になられましたか?
全国に約30店舗を展開しているフランスパンの専門店「メゾンカイザー」。本場フランスの伝統的な製法で焼き上げたパンが人気なんだとか。お客さんの目当ては「バゲット」。お店の名前は何度か聞いたことがありますが、パリッとした皮は厚めで香ばしく、中はもっちりだそうで、熱烈なファンが画面には映し出されていました。
食感の秘密は、酵母菌や乳酸菌など3,000種類の菌を培養して作る「天然酵母」。一般的に使われるイースト菌ではなく、天然酵母を使うことで風味や食感が良くなると言うことは、パン好きな人なら誰でも知っている事ですし、旨味が天と地ほども違うものですよね。我が家でも、毎週末は予め注文しておいた天然酵母で作られた食パンを頂いております。おっと、脱線してしまいましたねぇ…。
メゾンカイザーのパンは、店舗だけでなくフォーシーズンズなどのラグジュアリーホテルや、あの有名なフレンチの三國シェフがオーナーの「オテル・ドゥ・ミクニ」など、名だたる有名店が採用しているそうです。カイザーさんのバゲットは食べた事がないので、一度は食べてみたいものです。
このフランスパン専門店を率いるのは、ブーランジェリーエリックカイザージャポンの社長、木村周一郎氏。なんとこの方、実は、日本で初めてあんぱんを考案したことで知られる「木村屋」の長男として生まれ、幼い頃から「あなたはパン屋さんになる」と育てられたのだそうです。大学卒業後は生命保険会社に入社。営業部門で業績を上げていましたが、7年目が近づいた頃「そろそろパン業界に入らないか」と父から言われ、パン職人の道に入ることを決意されたんだとか。
ところが、木村屋は継がず、「50年に一度の天才パン職人」とも言われるフランスのエリックカイザー氏のお店で修業を積んでいきます。早朝から日が暮れるまで働き、店を出る頃には、まつげの先まで粉で真っ白だったそうです。1年が過ぎた頃、木村さんの働きぶりを認めたカイザー氏が、日本進出を任せると決めたのです。フランスで修業を重ね「フランスパンの伝道師」として日本で独自の地位を築きあげていく生き方…格好良いですよねぇ。
余談になりますが、一方、本家の方は、つい最近?? お家騒動があったようで、現社長の木村美貴子さんが父親を追い出したという噂もあったりと、複雑な気持ちもあったりしますが…。…もとい…。
木村さんは帰国すると高輪にフランスパン専門店「メゾンカイザー」をオープン。しかし当時、日本はメロンパンなどの「菓子パン」が全盛期。業界関係者の間では「絶対、失敗する」と囁かれ、【バカ息子】とまで言われたそうです。その通り、オープン当時は看板商品のバゲットが1日14本しか売れず、殆ど廃棄する毎日だったんだとか…。勿体ない話です。
そこで木村さんは「売れないなら、売りに行けばいい」と生命保険の営業時代の経験が活かされていきます。パンを焼いては、近くの交差点で無料で配り続けたそうです。「どうせ残ったら、廃棄することになるのだから・・・」と。すると、それから半年後のクリスマスイブに奇跡が起きます。
なんと店の前に行列が出来ていたのです。「特別な日に、特別なものを食べたい」とこれまで、試食したお客さんが買いに来てくれたのです。木村さんの試食作戦が見事に客の心を掴んでいたのです。木村さんは、村上さんに『革新者になるための秘訣は?』と尋ねられると、こう答えられていました。『決まりきっていたことを壊すほどの力・常識を壊すこと』と。
9月にオープンした商業施設「渋谷ストリーム」では、フランスパンをベースにしたあんぱんも売り始めたんだとか…。また、新たなステージに踏み込んでいく木村さんのパン。是非、食べてみたいものです・・・。
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10月1日放送のInnovative Tomorrow シーズン5、第1回のジャパネットたかた創業者でもある髙田明さんの回、ご覧になられましたか?毎週月曜日24:00~24:30にBS日テレで放送されている目立たない番組ではありますが、豪華ゲストが登場して、毎回楽しみな番組の一つとなっています。
髙田明さんについては、今年の5月29日の【出来ると信じたら8割のことは可能】というタイトルの回でも書かせて頂きましたので、またかと思われるかも知れませんが、今回は、高田さんが再三口にしていた『世阿弥』を中心に触れたいと思います。
・・・伝え方が書いてあると話し出すと…
【序破急】➡導入し展開し結論を導く
【1調2機3声】➡調子を整え、タイミングを図り、息をとめて声を出す
・・・と、テレビショッピングで役立っていた『間』が売り上げに結びつくと話していきます。
『伝える力を高めるヒント』がある・・・と口にすると、またまた・・・
【我見】と【離見】➡「自分の一方的な視点」と「相手の立場に心を置いた視点」
人を感じる心(離見)で接する事の大切さについても話されていました。世阿弥??
いつもの【思考のコア…自分への問い】に対しては・・・
『今という瞬間を一生懸命生きているのか?』と話し、「失敗には二種類ある・・・
「やらないことで得られる失敗」と「一生懸命やらなかったことで得られてしまう失敗」
この2つをしないように心がけているんだとか
・・・で、こうした番組で【世阿弥】を引用されるのは初めてのことだったので調べてみました。
世阿弥が残した著作の中でも、特に有名なものが「風姿花伝」というものらしいのですが、演劇や芸術についての考えが述べられたもの・・・とは言え、どうやら『世阿弥』の言葉の深さはそれだけではないようです。
劇団のオーナー兼プロデューサーでもあった世阿弥は、劇団の存続の為に「どうしたら良いのか?」を考え抜き、役者の修行方法から始まり、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味を惹くにはどうすべきかなど、後継者に託す具体的なアドバイスを記していったのです。いわば、芸術のための芸術論というよりは、生存競争の厳しい芸能社会を勝ち抜くための戦術書ともいえるもの。
世阿弥は、観客との関係、人気との関係、組織との関係など、すべては「関係的」であり、変化してやまないものと考え、その中でどのように己の芸を全うするか、ということを中心に説いています。ビジネスパーソン…特に、営業には役に立つ物のようですね。読みやすく解説された本も多く出版されているようですから、まずは「風姿花伝」…読んでみたいですね。そうそう、ついでなので世阿弥の珠玉のことばの中から、代表的なものをひとつ。
【初心忘るべからず】
・・・これも世阿弥だったんですねぇ・・・
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10月4日放送のカンブリア宮殿『熱狂ファンを生み続ける "六花亭"震災に負けない!驚きサバイバル術の全貌』の回、ご覧になられましたか?
百貨店等で、大人気のイベントと言えば・・・「北海道物産展」。私も、そんな広告を見てしまうと、何が欲しいという訳でもなく、ワクワクして見て回りたくなってしまいます。今回の主役は、そんな物産展の中でも、特に人気を集めているという…土産菓子で全国に熱狂的なファンを抱える「六花亭」さん。
1日に20万個を作る「マルセイバターサンド」や、イチゴを丸ごとチョコで包み込んだ「ストロベリーチョコ」など数多くのヒット商品を持つ、人気のお菓子メーカーで、“機械だけに頼らず、味や食感の特徴を出す「ここ」という部分は、職人の手作業で菓子を作っているのです。しかも六花亭には「北海道以外には店を作らない」「売り上げや規模の拡大を目指さない」という、独自すぎるポリシーもありました。
代表の小田さんが六花亭に入社したのは1972年。当時、若者を中心に北海道旅行が流行し、小田さんの父が開発した日本初のホワイトチョコが全国的にヒットしていました。1977年には屋号を「六花亭」に変更し、札幌に進出。屋号変更の記念として発売したのが「マルセイバターサンド」で、売り上げ100億円を目指し、商圏を拡大させていったのだそうです。
そんな六花亭に東京進出の誘いが入りましたが、小田さんは、東京には進出しないことを決断しました。【デキモノと食べ物屋は大きくなれば潰れる】という父親の言葉があたまに浮かび、【目が行き届かなくなるから】と、「売り上げや規模」を追求するのではなく「従業員の質を維持する」ことで、企業を永続させるという、独自の経営を突き進めていくのです。
毎日発行される社内新聞『六輪』…社員の生の声が聞こえ、相手が見えてくる。その中には改善提案等も含まれ、従業員自身にも、他の社員の頑張りが見えるとモチベーションが上がる。働き方改革も、とっくの昔に実現。残業はゼロ。有給休暇は、29年連続で百パーセントが消化されています。従業員6人以上が参加する旅行であれば、社員旅行制度が適用されて、経費の7割りを会社が負担(年間20万円まで)。ある社員は『一生懸命働いて、一生懸命遊んで、遊んできたから、また頑張ろう』と思えると笑顔で話されていました。
頑張った人を讃える報奨制度。今月の顔…受賞者の為に開かれる宴は、社長を含める役員自らも接待し、更に最後には20万円の特別ボーナスも…。月間賞の中から選ばれた最優秀者には、カナダ旅行と100万円。「マッチングギフト」という制度では、会社と社員が寄付を積み立て、返さなくてもよい月六万円までの奨学金までありました。ごろすけ保育園という自社の保育園を設け、エルダー制度という65歳以上になっても働ける制度まで用意されています。やる気を引き出す制度や働く環境を整え、従業員の質を上げていく…それが企業の永続性に繋がると考えているそうです。
小田さんは、「850や1300人くらいなら顔も名前も覚えられる」と話し、「大家族なんだから、一人も脱落しないように全員の力を引き出すのがトップの仕事」と話されていました。十数名しかいないのに社員の名前を間違える社長もいる世の中、「これぞ社長!!」と拍手喝さいを贈りたいところです。
『あなたの今日の仕事は たった一人でよい。この店に買いにきてよかった 満足してくださるお客様を 作ることです。六花亭があるおかげで お客様一人一人が 人生は楽しいと 喜んでくださることです』そんな言葉が社内に貼りだされている【六花亭】さん。『売上ではなくて客数が大切、信頼の証が大事』と話す小田さんは、工場の壁に刻まれたプレートへとカメラを案内していきます。そこには、これまで会社に勤めてくれて来た『従業員の名前が刻まれたプレート』が壁一面に埋め込まれていたのです。熱いものがこみ上げてくるではないですか。
従業員の質を維持することで、企業を永続させようとする小田さんは、まだまだ、重視されているものがありました。それは、時間を取り入れた経営。例えば、北海道の中札内村には六花亭が直接運営する美術館。この美術館…大正2年から銭湯として利用されていた建物を移築したものだとか。ツタに覆われた築75年の建物は、誰もが利用できる図書館へ。小田さんは、こうした歴史的に価値のある建物を地域に残すことで、その景観を地域の財産として後世に残そうと考えていたのです。
「マーケットに限界がある産業だからこそ、成長を追うのではなく、いかに企業として深耕していくか」を考えなければいけないと語る小田さんは、今年9月の巨大地震、大規模停電があった当日も…震災の影響で工場がストップし、商品の各店舗への供給もままならない状態だったにもかかわらず、当日から営業することで、地元の人達に安心感を与えようとされていました。地元の人達に愛され、街と共に生き残っていく会社でありたい。そんな思いは、六花の森という自然公園、なんと東京ドーム2個分の施設まで作ってしまうほど。地元の人が誇りに思える会社になれるよう、小田社長流の社会貢献だったのです。
『企業の永続性に繋がるかどうか、あってもなくても良いことはやらない」『永続性』とは、『追いつかれないこと』。ライバルや同業者に、時間をかけないとできないことを蓄えておけば、その蓄えが追いつかれない…猶予期間…余裕を生み出すと話す小田さん。お菓子だけではなく、社内制度や地域の環境整備だとか、全体が1つとなって企業を作り上げていたのです。『売上や規模の拡大は追わない。売上目標も販売目標もない。東京への進出もせず…それなのに売上は200億』・・・納得できる事実。当然得られる結果と思えたのでした。
いつもの村上龍の編集後記には、こう書かれていました。
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「六花亭」のお菓子は非常に有名だが、物産展以外では都内のデパ地下で買えない。マルセイバターサンドは発売から40年以上、流行には追随しないという考え方だが、商品は洗練されている。売り上げは追わないらしいが、長期的には業績は上がっている。小田さんご自身も、取り上げるべき話題が多く、印象深く、型にはまらない人だった。だが、スタジオで最後に「孤独感がありますか」と聞いたとき「あります」という答えが返ってきて、素顔を見た気がした。経営者は孤独に耐えて決定を下す。それ以外に、経営は、存在しない。
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これまでも素晴らしい会社を見聞きしてきましたが、あらゆる面で理想の会社…驚きの会社でした。長くなってしまいましたが、番組を見ていく中で、作られていく【六花亭】の美味しいお菓子の裏側に、深く豊かな愛情を感じたのでありました。
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さてさて、シリーズも最終回を迎えましたが…と言いたいところですが、AIの話はこれからも中心になっていくものなので、シリーズ最終回とは敢えて言わずに、「つづく」とさせて頂きますね。
…で、そんなAIにおいて…デバイスが生み出す膨大なデータを、ネットワークのエッジで分散協調的に処理する「エッジヘビーコンピューティング」を提唱し、様々な分野でイノベーションの実現をめざしているPFN(プリファード・ネットワークス)のHPを訪ねてみると、こんな事が書かれています。
●交通システム
自動運転およびコネクテッドカーに関する技術の研究開発。2014年10月からトヨタ自動車と共同研究を行う。
●製造業
ロボティクスや工作機械への応用。物体認識・制御・異常検知・最適化技術の研究開発。2015年6月からファナックと、2017年12月からは日立製作所と共同研究を行う。
●バイオヘルスケア
医用画像の解析、血液によるガンの早期診断技術の研究開発。2017年12月から国立がん研究センター等と共同研究を行う。
また、Visionと題して、こんなメッセージも書かれていました。
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今、テクノロジの世界では大きな変化が起こっています。一つは、IoTの普及と進化。様々なデバイスがネットワークにつながることによって、新しい価値が生まれつつあります。そして、もう一つは、人工知能の進化。深層学習をはじめとする機械学習の技術は、急速に研究が進み、様々な分野で実用化がいよいよ進みつつあります。私たちは、その2つの流れを融合し、新しいイノベーションを起こすことを目指しています。…中略…PFNは、機械学習・深層学習を研究開発しているだけの会社ではありません。分散コンピューティング、優れたデータ処理アーキテクチャ、ハードリアルタイムを実現するネットワーキング技術、自動車・ロボットをはじめとするデバイスへの深い理解など、様々な専門性を組み合わせることによって技術開発を行っています。…中略…PFNの研究者・技術者は、高い専門性を持っているだけでなく、他の分野への理解の重要性、多様性の重要性を熟知しています。製品開発と研究開発は、同じ組織の中で密接に並行して行われています。そして、スタートアップの機動力を生かし重要な分野へフォーカスし、パートナーと密接に連携しあい、一体となって技術開発を行っています。このようなことが実現できるのは、PFNという強力なチームがあってこそです。そして、我々のビジョンを実現した先には、自動車産業・製造業・ライフサイエンスという、社会にとって非常に大きな分野の、とてつもない大きな進歩が待ち受けています。
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ユニコーン企業として国内最大となったというPFNですが、そもそもユニコーン企業とは何か? Wikipediaには、こう書かれています。評価額が10億ドル以上の未上場のスタートアップ企業。「創業10年以内」「評価額10億ドル以上」「未上場」「テクノロジー企業」といった4つの条件を兼ね備えた企業のこと。・・・なるほど。
★株式会社PFNは、大規模な並列コンピュータ「分散学習パッケージChainerMN-1」を活用し、深層学習(ディープラーニング)の学習速度において世界最速を実現2017年11月
★ロボットの国際学会ICRA 2018で、 Preferred Networksの論文がHuman-Robot Interaction(HRI)部門の Best Paper Awardを受賞2018年5月
★世界454チームが参加した物体検出コンペティション Google AI Open Images – Object Detection Trackで準優勝2018年9月
・・・2014年3月の設立以降、トヨタ自動車、ファナック、NTT、米シスコシステムズ、国立がん研究センターなど国内外の幅広い産業領域の企業・組織と提携、協業、共同研究開発を行うだけでなく、2017年4月には米インテルと、PFNの深層学習フレームワーク「Chainer」の開発での協業を発表。汎用CPU上でディープラーニングを可能にし、画像認識や機械制御といったAIによる機能を様々なIoT機器でも実装できるように…。
同5月には、米マイクロソフトとディープラーニング分野での戦略的協業を発表。マイクロソフトのクラウドサービス「Microsoft Azure」とPFNの深層学習テクノロジーの連携を推進し、ソリューション提供を目指すなど、世界を視野に入れ、事業を加速させている。PFNの特徴は、世界的企業とも“対等なパートナー関係”にこだわること。自動運転で共同研究を行うトヨタ自動車、産業用ロボット同士の協調に向けた協業を行うファナックでも同様。
様々な分野のAIの活躍の場の陰に隠れ、絡む提携企業の株価は軒並み上昇と…調べれば調べるほど、PFNの凄さを思い知らされてしまいます。だからこそ、そんな会社の中心人物の思考のコア…自身への問いかけ…①の回でも書いた・・・
【前例のないコラボレーションは、どこにあるのか?】
こうしたトップランナーらしい言葉として、確かに受け止められるのでありました。
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「AIが変えていく未来と人間・・・②」って??・・・と①もないのに②から?と思われた方、今回は姉妹サイトと連続物で書かせて頂いておりますので、「①巨人が群がるAI集団、株式会社プリファード・ネットワークス」の回は、そちらでお読みください。また、昨年の7月にも「まるで映画の様に、人工知能が世の中を治める時代が…」というタイトルでAIについては書かせて頂いておりますので、興味がおありの方は、そちらもどうぞ。
さて、今回はNHKドキュメンタリー『 コズミック フロント☆NEXT「宇宙開発を変えるか?人工知能・AI」』から…
今、宇宙開発のありかたを人工知能・AIが変えようとしているというお話。人間の知能を再現することをめざし、恐るべきスピードで進化を遂げつつある人工知能。番組では、未知の惑星を見つけたり、コンピューター・シミュレーションによる画像と、実際の銀河の進化のプロセスを結びつけたりと、大発見に貢献する人工知能の現場を紹介していました。
そう言えば1月18日に放送された同番組では、私の大好きな作家も取り上げられていました。
150年前、19世紀フランスの作家ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を産み出します。後に宇宙開発を牽引する科学者の多くが少年時代にこの物語を読み宇宙をめざしました。しかもその内容は100年後に行われる実際の月計画と驚くほど似ていたんだとか。なぜ彼はそんな物語を描けたのか。今につながる宇宙開発のきっかけを作った偉大な作家の謎に包まれた創作の秘密・・・
最後にベルグが懸念を示した小説の原稿が最近見つかり出版されました。それは今までのベルグの考え方とは真逆でした。パリは公害が進み計算機により人間は支配されるという暗い内容・・・計算機…今でいうAIが人間を支配するというのは、近年映画の中でも多く取り上げられるようになってきていますが、まだ実感としては薄いAI ・・・
まず今回の番組の中で知らされたのは、「人工知能が未知の惑星を発見」というお話。その一つはケプラー90の惑星で、見つけた方法は人と同じとは言え、人間が見落としていた物を、画像を通してAIが見つけるというもの。やり方はシンプルです。犬を認識する流れで言うと、まずは、ひたすら犬の画像の情報だけを与える。そうすることで、犬の特徴を掴ませ、正確に当てるようにさせる・・・それだけです。
同じことを宇宙に当てはめたというのです。惑星がある情報を学習させる。次に他の物と混ざった情報を与えて訓練し、正確に選べるようにしていく。そして、人では判断できなかった物を見分けることが出来るようになった。・・・ということだそうです。人工知能がまだ分析していないデータは20万もあるのだとか。宇宙人のいる惑星を見つけるのも時間の問題かもしれませんね。
また「人工知能が地球を守る」・・・そんなお話も聞くことができました。記憶に新しいところで、2013年2月のロシアに落ちた隕石。100km以上にわたって、建物の壁や窓ガラスが壊れ、1,500人以上の人がケガをしました。
そもそも、地球事変GIGA MYSTERY (3)「大量絶滅」でも取り上げられていましたが、超巨大隕石の衝突によって、生命体の99%が死に追いやられ、地球全体を揺るがす大事変に至った過去を持つ地球。『アルマゲドン』という映画では、主人公のブルース・ウィリスが、巨大な小惑星から地球を救うために核爆弾を使っていましたが、そんな話を思い出させる瞬間でもありました。
そんなロシア隕石落下事件をきっかけに、人工知能を使った地球防衛プロジェクトが2016年に発足したそうです。現在発見されてる小惑星は水星から木星の間あるメインベルトだけでも73万個以上と言われ、地球に接近しうる小惑星が約2万もあるそうです。
数も多く、形も複雑、未発見の小惑星から地球を守るためには、正確な形や大きさを把握し、中心を特定して、その軌道をつかみ、地球までの到達時間を正確に知る必要があるそうです、ところが、現段階では、その99%以上が、形すら把握できていないとのこと・・・。だから落ちてからビックリしている訳なんですね…。
そこで登場してくるのが今回の主役AI。レーダーを使って得られる実在データの他、小惑星のサンプルデータが不足していたので、シュミレーションで数百万個の3Dモデルとそのレーダー画像を作り、実存していない小惑星の形までAIにディープラーニングさせました。人間だけで行うより大幅な時間短縮に貢献してくれるはずです。
2008年10月6日には、レモン山天文台の望遠鏡で小惑星2008 TC3を発見されていますが、この小惑星は、発見から約20時間後にスーダン上空で地球の大気に突入しています。堕ちた場所と隕石があまり大きくなかったため、惨事にはなりませんでしたが、人が手間をかけてやってきた従来の方法では対策できない事が分かっているだけに、一日も早く、システムが確立される事を期待したいですね。
番組ではこの他、宇宙で"人間では入る事ができない所"で活躍してくれるというAI ロボット ドイツの『ジャスティン』や潤滑油の働きをするコミュニケーションAIロボット『サイモン』も紹介されていました。過酷な仕事から人間を守り、危険な環境から命を守ろうとするAI …頼りになりそうですが…AI…歓迎できない話もあるようで…。
(つづく…次回は、NHKスペシャル『人工知能 天使か悪魔か2018 未来がわかる その時あなたは…』というタイトルで姉妹サイトの方で書かせて頂きます。ちなみに、これはパスワードが一時的にかかりますので、すぐ読みたい方は①の最後に書かれている問題を解いてご覧ください。)
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9月23日放送の「情熱大陸」ご覧になられましたか? 8月に山口県で行方不明となった2歳の男の子を発見し、一躍時の人となった、“神”と呼ばれるスーパーボランティアの尾畠さん(78歳)が登場されていました。
カメラが追ったのは西日本豪雨で大きな被害を受けた広島県呉市天応地区。被災地の復旧を手伝うボランティアの中に、一際目立つ、赤いつなぎに、「絆」と書かれたヘルメットの尾畠さん。取材を求められると「何でも撮って良い」ことと「活動中は邪魔をしない」という事を約束に、少しも嫌な顔をせずに番組の取材を受諾。
天応地区には、氾濫し流れ込んだ土砂が今なお残ったままの家屋も多いのですが、率先して床下へもぐり込み、ヘドロとなった土砂を泥まみれになって次々とかき出していきます。みんなが休憩している間も、作業効率を上げるために瓦礫の山から適当な板を探し、泥濘の土の上に敷き詰めていきます。ボランティアも段取りが7割と語る尾畠さん…流石です。
また、被災者に寄り添うようにして声をかけ要望を聞き出し、仲間たちに伝えます。時には、経験が浅く動きが硬いボランティアを得意の冗談で和ませ現場の空気を変えていきます。さらに毎朝9時に始まる一般のボランティア活動の前にも独自の活動を続けていました。
早朝6時、たったひとりで向かったのは泥と流された瓦礫で埋め尽くされた川…。始めたのは沢山の瓦礫や汚物も混ざった川の泥をスコップで掘り返し、探し物。行方不明の人が見つかるように、衣類などを見つけると川の水で洗って、近くに、目立つ様に配置。遺品でも見つけられればと…最後まで諦めない姿勢を行動で見せていました。その『行動力』は凄まじいものです。
ボランティア仲間の1人はそんな尾畠さんを「神」の様だといいます。大分県の地元では人気店だった魚屋を65歳で閉店され、世の中に恩返しをしたいと今はボランティアに専念。活動資金は年金収入の月55,000円だけ。お礼は一切受け取らず、節約を心がけ車中泊をしながら全国の被災地を回っています。2011年の東日本大震災の際は、南三陸でなんと500日にもわたって活動されたんだとか。
束の間の休息日は、バイクで30分走り、無料の大好きな露天風呂で疲れを落とすそうです。同じ様に入浴していた人たちは、皆がこう話されていました。
「この人は、テレビに映るずっと前から、変わらずボランティアをしてきたんだ」
・・・と、まるで自分たちの自慢の種であるかのように…。
そんな尾畠さんのもとには来客が絶えず、中には人生相談をしに訪れる人も。番組中には、そんな尾畠さんに講演依頼が入り、丁寧に断られていましたが、あの2歳児を発見し、報道されてからは、そうした依頼も殺到しているんだとか…。講演依頼もそうですが、こうしてテレビに出ることは、本人にとっては活動の妨げになるだけの様な気もします。
番組の中では、広島風お好み焼きの差し入れに涙して感動している尾畠さんの様子が映されていましたが、テレビに映る事で、過剰な差し入れなどがされることも、きっと迷惑になっていく様な気がします。ボランティア期間中、車中泊となる尾畠さんに車の中で休めないのではという質問が投げかけられると、避難生活をしている人に比べれば、ずっと良いと即答されていた尾畠さん。差し入れも、時にはマイナスになるのではと思ったりもします。
小学校5年生の時に母を亡くし、農家に奉公に出て,中学校は3年で4カ月しか通えず、別府市や山口県下関市、兵庫県神戸市の魚店で修業を積み、東京都大田区で鳶と土木の会社で資金を貯めた後1968年に大分に戻って魚屋「魚春」を開業されたんだとか。そんな苦労人の尾畠さんのお店は、当然、地元の人気店だったそうですが65歳の時に惜しまれながら閉店し、これまで沢山の人にお世話になってきたから、今度は、自分が世の中の人の役に立ちたいとボランティア活動に専念していきます。
引退は身体が動かなくなった時に考えるとか…。そんな尾畠さんは、10月には79歳になられるそうです。番組の中では、命を全うした死後の世界で、10歳で先立たれた母親に会えたなら、背骨が折れるほど強く抱きしめて欲しいと涙ながらに語っておられました。尾畠さんの生活を妨げるような接触は避けてもらいたいとつくづく思い、自分も何かできる事をしなければ…そんな気になってしまうのです。
改めてこんな生き方ができる人、人への思いの熱い人に対し、尊敬と感謝の意を表したいと思います。
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