BSジャパンで毎週日曜日に放送されている『運命の日 ニッポンの挑戦者たち』
という番組で、先週・先々週と2週に渡って放送された『最年長ガールズケイリン
選手の挑戦』を昨日まとめて録画で見ました。
自転車のセッティング、組み立てから競われる競輪って、日本で生まれたスポーツ
だったのですね。今更ですが…。そんな競輪の中でも2012年に復活して始まった
ばかりのガールズケイリンが今回の舞台。
鍛え上げた肉体を駆使して自転車を漕ぎ、女性同士でスピードを競うガールズケイ
リン。平均年齢27歳という世界で、今回は50歳でデビューを果たした高松美代子
選手が取り上げられていました。
早々に両親に先立たれ、子供達が大きくなった事をキッカケに後悔しない人生をと、
49歳で競輪学校に入学。50歳でデビュー。そして今年54歳という現役最年長選手です。
二人の娘を育て上げた高松選手は、現在も主婦と競輪の二足の草鞋で挑戦を続けています。
そんな高松選手に訪れていた大きな試練の日が、今回の運命の日。6月末までの成績
順位によって、全選手のうち下位3名が選手登録を抹消されるという入れ替えシステム。
6月の試合を残して、高松選手の成績は下から6番目。少しでも勝利し、現役を続行する
ことが出来るのか…。
今回はそんな高松選手の運命のレースの日を遡ったところから、当日を終えるまで
に密着していました。結果は、見事試練を乗り越えて現役最年長選手として続けら
れることに・・・。目標は、東京オリンピックまで現役でいる事だそうです。
正確な表現は忘れてしまいましたが・・・
『伸ばす事は出来なくても、無駄な部分を削ぎ落とす事は出来る』
とか、
『体力は劣っても、忍耐力・精神力・気力は、誰にも負けない』
そんな事を語る眼差しが輝いていたのは、とても印象的でした。
50歳過ぎて、心身ともに衰えを感じていく人が多い中、諦めず前進できる高松選手。
鉄人です。私も、刺激を受けたいところですが、55歳にして足腰ボロボロで…。
女性の底力を感じさせられた今回でした…。
『天赦日』…昨日、はじめてこの言葉を目にしたのですが、まず『何の記念日?』
・・・って思ったんですよね。これは、「てんしゃにち」もしくは「てんしゃび」
・・・と読むそうで、 日本の暦の上で最上の吉日とされている日。新しく何かを
スタートさせたり躊躇していたことに挑戦するにはもってこいの日のようです。
そこで、いつものWikipediaで確認してみると、『この日は、百神が天に昇り、
天が万物の罪を赦(ゆる)す日とされ、最上の大吉日である。そのため、天赦日に
のみ「万(よろづ)よし」とも注記される。』と書かれており、年に5~6回しか
ない貴重な『万よし』の日…開運日ということでした。
ちなみに昨日は一粒万倍日と重なっており、そんな日には宝くじも買ってみたく
なるというわけで、それを利用した宝くじ売り場の宣伝文句に、この私も引っ掛
かった訳であります。
『天赦日』は他の吉日と重なっていたら効果倍増、逆に悪い日と重なったいたら、
吉日パワーが半減するとされ、本来良くない日のマイナスパワーも軽減してくれる
というのです。他の吉日と重なる事のある『天赦日』…なかなか面白いじゃない
ですか。ちなみに、今年は、残すこと9月23日と12月8日の2日間ですが、どちらも
一粒万倍日と重なっています。
一般的に大安に入籍や結婚式を挙げる方が多いですが、天赦日が大安より吉日だ
という事はあまり知られていませんよね。六曜(大安、友引、仏滅等)が記載され
ているカレンダーは多いのですが、天赦日まで記載のあるカレンダーはまず見た
ことがありません。暦にこだわるのであれば、「万(よろず)よし(=何に
関しても良いという意味)」とされる『天赦日』、覚えておきたいですね。
昨日買った宝くじ…当たると良いなぁ…
参院選、終わりましたね。投開票された参院選(選挙区)の最終投票率は、
時事通信の集計で54.7%となり、前回2013年参院選の52.61%を2.09ポイント
上回ったそうですが、過去4番目の低さだったとの事。
選挙期間が通例よりも1日長く、期日前投票が増えたことに加え、国政選挙として
初めて選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられたことが、投票率微増の要因と
見られるそうですが、だとしたら一般社会人の投票率は、もっと下がったのではと
思わざるを得ません・・・。
14日告示の東京都知事選と時期が重なったことなどで、参院選への関心は
高まらなかったという話もありますが。そんな事が、ここまでの数字に
繋がるとも思えません。
また、初めて合区された4県のうち、高知、徳島、鳥取の3県では投票率が
過去最低となったそうですね。あれほど世の中を騒がせた安保法案に対する
動きも、一時期のブームに過ぎなかったかのように、いつものような投票率…
一方、公示翌日の6月23日から7月9日まで行われた期日前投票者数(速報値)は、
1598万6898人で、前回を23.46%上回って参院選の過去最多を更新しました。
その事に注目して見れば、何とか1票を投じたいという人も増えていたのでは
ないかと思われるのですが、大勢に影響はなかったようです…。
こうして選挙人名簿登録者の15%が事前に投票を済ませたという事は、投票
しようとする意識の差に、大きな違いが出たのではないかと言える気がします。
あなたは投票に行かれましたか?マニフェストが定着してきた時は、ある程度の
期待もありましたが、結局選挙制度1つ取っても自身で自身の首をしめるような
ことはできるはずもなく・・・いろいろとがっくり来てしまいます・・・
それでも投票はしないとね。自分たちの国で、自分たちの生活に関わるわけで、
投票もしないのに文句ばかり言っていても仕方ないのですから・・・。
マガジンハウス発行の雑誌『ポパイ』で提唱された記念日という事で、今日は…
『ナンパの日』…「ナン(7)パ(8)」の語呂合せから制定されたそうです。この日は、
見知らぬ異性を誘っても良い日という説明で、なんとも妙な記念日です。
どんな風に説明しているかが面白いので、いつものようにあのWikipediaで調べて
みると、「ナンパ」とは、『面識ない者に対して、公共の場で会話、出会い、デート、
キス、連絡先交換に誘う行為。その行為を行う者は軟派(なんは)と呼ばれる。
英語圏では、「(異性を)拾う行為」という意味から、「pick up」と呼ぶ。』と
ありました。
軽薄な印象があるため忌避されることもありますが、「ナンパ行為」は出会いの
一つの方法として古くから用いられているわけで、一目惚れから始まる恋に
関しては、このナンパをしない事には、めったに実る事はありません。
昔からナンパが盛んで有名な場所は渋谷、新宿、池袋で、西日本になると
道頓堀と心斎橋をつなぐ「ひっかけ橋」が有名だそうです。
また、『日本国語大辞典』によると軟派は明治時代の新語であって、当初は
政治用語で「意見や主張が軟弱な党派」「強硬な意見を主張することのできない者」
の意味(用例初出1892年)でしたが、これを応用して「新聞・雑誌で、社会面や
文芸、またはつや物などの記事を担当する部門やその記者」(初出1901年)、
「異性との交遊や、華美な服装を好んでする青少年の一派」(同1909年)の
用法が生じたとのこと。
最近では、「恋愛関係・異性間交友(男女関係)を避ける態度」は「硬派」、
その逆の「恋愛にうつつを抜かし、異性を追いかける態度」は「軟派」と
呼んでいますが、そこから転じて、「異性に声をかける行為」を指して
カタカナ言葉の「ナンパ」と呼ばれるようになったとの事。
また、ナンパをしそうな軽薄な人物を指して「ナンパ野郎」と呼んだり、
女性から声をかける事を『逆ナン』と呼んだりするなど、政治用語から始まった、
『軟派』の用法も、時代の変化と共に、随分と柔らかく進化しているようですね。
それにしても『見知らぬ異性を誘っても良い日』とは、随分な記念日でまいりました…。
これも更に時代が進めば、バレンタインデーの様に、声をかけられない人たちが、
この日ばかりはと奮起するイベントデーとなっていくのでしょうか…
まさかねぇ…
『未見の我』
人間 だれしもの中に 自分の知らない
素晴しい 自分が眠っている。
それを私は『未見の我』と呼んでいる。
世の中には 自分の中に埋もれている
素晴しい「未見の我」に 気付かずに
埋もらせたまま この世を去っていく惜しい人が 多い。
君たちは 若い。
今から『未見の我』の存在に目覚めて
その開拓に 精一杯努力して
意義ある人生を送ってほしい
随分と昔の話になるので、誰の講演かは忘れてしまいました。学校で生徒に
向けられた話だったと思うのですが・・・。実はこの『未見の我』、この
講演者が考えた言葉ではなかったようで、吉田松陰の言葉として随分
前からあったという話を、後にしりました。…その中身はこうです。
未だ、見たことのなかった自分を目指しなさい。
心は熱く、一生に一度くらい、本気でやってみなさい。
必ず達成します。
運命を造りなさい。
とは、言いながらも実際に文面に『未見の我』という言葉は、出てきません。
また、安積得也のこんな詩でも知られているようです。
『未見の我 』
昼なお暗き大森林の
何千億の樫の葉から
一番よく似た二枚を採って較べて見る
不思議だ
一枚だって同じものはないのだから
植物学者の語る事実が
鋭い暗示を
人間個性の問題に投げかける
人皆(ひとみな)の声が違うように
人皆の可能性が
おのがじしなる持ち味を蔵している
愕(おどろ)くべき真理だ
お互一人一人が
夫々に天下一品の特質を
おおいなるものから授かっているとは
人みな英雄!
そうだ
内に隠れて見えないけれども
現在(いま)こそ内に眠り底に潜んで
自分にも他人にも発見(わか)らないけれども
五尺の我のうちにこそ
未見の我の偉大な姿が隠れているのだ
ありがたや
自分の中には自分の知らない自分がある
強くして能あり
清くして正大なり
現在の我とは比較にもならぬ
未来相の我だ
私はもう私を見くびらない
弱小の私
無能の私
あやまち多い私
しかし私は未見の我の故に
私の全身全霊を愛惜する
彼はつまらぬ奴だ
馬鹿なまねをしやがった
しかし私は彼を見棄てない
彼の内なる未見の彼を
私は限りなく尊重する
(詩集『一人のために』から)
安積得也は、1900年生まれで「人間賛歌」という本の中にも別の詩が
登場しています。それでも、吉田松陰は1830年生まれなので、吉田松陰の
言葉を知っていた人が、後に『未見の我』という言葉を創り出したのかも
しれませんね。誰が最初に産み出した言葉かは、はっきり分かりませんが、
いくつになっても、この『未見の我』を探しながら、ワクワクしつつ、
前向きに生きていきたいものです。
※姉妹サイト「BLACKBOX」は、こちらです。
『明日へ向かって』
まだまだ 見捨てたもんじゃないぜ
そんな自分に 気付く時がある
何か 他人と違った事をやらかしたくて
突破口を探して ここまでやってきた
本気で笑える奴が そばにいるから
本気で語れる 夢もあるはずさ
目をつむれば いつも そこに誰がいる?
俺には かけがえのない いかしたナイス・マイ・フレンズ!
すべては時の流れのせいかい?
堕ちてく影など 消してしまえ
ヒントは お前の足元に 転がってる
明日へ向かって 明日へ向かって
ずっと このまま突っ走って行けばいい
10本の指で 10本の価値あるものを
なぞる必要など どこにもないさ
ダサイ クサイは 誰のための言葉?
肝心な事は 俺がどうするかって事さ
俺が選んだ 長い階段の途中には
たくさんのもどかしさたちで ひしめきあってた
その一つ一つを 噛み砕いては 吐き捨て
いまだ かつて その答えは ミステリー
すべては時の流れのせいかい?
堕ちてく影など 消してしまえ
ヒントは お前の足元に 転がってる
明日へ向かって 明日へ向かって
ずっと このまま突っ走って行けばいい
長渕剛さんの歌からご紹介させていただきました。この歌は、長渕さんの
コンサートのラストで、よく歌われていた曲ですが、特にこんな歌詞が好きで、
迷ったり落ち込んだりしている時に思い出したりしています…
「10本の指で 10本の価値あるものをなぞる必要など どこにもないさ
ダサイ クサイは 誰のための言葉?肝心な事は 俺がどうするかって事さ」
人と関わっていくのが社会ですから、人に認めてもらうことも大切な事ですが、
人の評価が全てではないし、全てがうまくいく筈もありません。
『どう生きたいか、どうしたいか』それを軸として、前に進んでいるのであれば、
きっと近づけているはず。『未見の我』に…
道
人は 出逢いと別れの中から
生きるすべを 創り上げて
静かに 涙が落ちてゆく時
気がつく 1人の辛さを
幸せは いつも遠すぎる
まわり道ばかり 多くて
これで いいのさと 呟けば
空しさばかりが 鳴り響く
いつか いつか
人を 思いやる気持ちさえも 忘れていた
見えない光を 手さぐりの明日に
見つける愛が あればいい
苦しい人生を 生きぬく姿に
なぜか 人は 胸打たれてゆく
あてのない道ばかりじゃ ないさ
めぐり逢い 暖めて
そして すべてを分かち合えたなら
初めて 人は 生きてゆける
いつか いつか
愛する人の道に たどり着けるまで
いつか いつか
愛する人の道に たどり着けるまで
今日は、鈴木一平という歌手の「北緯43度」というアルバムから「道」という曲の
歌詞をご紹介させていただきました。この曲を聞くと、いつだったか・・・
『いじめ』が原因で不登校となった子供のドキュメントを思い出します。
不登校で大好きな学校に行けなくなってしまった子供に対して、レポーターが
「学校に行きたいか」と尋ねた時、何も言葉を発しなかった子供…。
望んだところで、行けるわけもないことを知っていたから…。それでも、
クラスの学級委員の子に誘われて久々に大好きな学校に行って・・・
『どうか?』と気持ちを尋ねられた時も…「うれしくない…」と応えていました…。
いじめた側からすれば、ちょっとした遊びだったのかも知れませんが、
いじめられた側にとっては、本当に深い深い傷となって残ってしまうのです。
そうした傷の深さが、見ている側の心にさえ、突き刺さるようでした…。
それでも、いつかまた、人を信じられるようになって、支え合って生きて
いくことの喜びを知ってもらいたい…そう願わずにはいられないのでした。
ウィンブルドン選手権は、今更改めて言うまでもない事ですが、テニスの聖地、
イギリスはロンドンのウィンブルドンで開催されるテニスの四大国際大会
『グランドスラム』の一つです。
大会の名称は、もともと「The Lawn Tennis Championships on Grass」でしたが、
短縮されて「The Championships」と呼ばれるようになっています。日本語では
全豪、全仏、全米と区別がしやすいように「全英オープン」と呼んだり、
そのまんまのウィンブルドンでも充分通じるようになっていますよね。
試合や練習の際には白いウェアを着用する事が義務付けられていますが、色だけに
とどまらず、全身タイツのような奇抜なウェアの使用も禁止されており、ファッ
ションにこだわる選手にとっては『今時…』なんて思いもあるでしょうが、
流行りのゼブラ柄より私は好きですかね。
気になる今年のシングルスの優勝者(男女共)には200万ポンド(約3億2,000万円)の
賞金が与えられ、仮に1回戦で負けたとしても500万円ほどの参加費?がもらえるとか…。
ここ数年でドンドン賞金額は上がっていますが1年1年が勝負で長くは続けられない事を
思えば、それでも安いのかもしれません。
特にトップで争う人たちは、年間通して殆ど休みもなく、かなりの負担を背負って、
それでも勝ち続けなければならない過酷な世界ですから、そんな世界に日本人として
錦織圭選手がいる事は奇跡のような話です。
さてさて、今正にその全英オープンが開催されていますが錦織選手も順調に勝ち
進んでいますね。女子の大坂選手が出られなかったのは残念ですが、トーナメント表を
見ると錦織選手の組み合わせは良く、ベスト8は楽勝で行けそうです。最初のハードルは
ベスト4へ進む時のハードルで、本人が尊敬もしているという師匠のフェデラー選手。
師匠も前回身体を痛めていましたが、錦織選手の調子も万全ではないように見えるので、
どんな闘いになる事やら…。また暫く寝不足の日々が続きそうです
今日6月30日は「ハーフタイムデー」と言われて、1年の半分となる日のようです。
正確にと言われると、前半だけで2月4月6月と30日を切っているし、2月は特に
少ないから、半分ではない気がしますが、そんな事を言っていると分かりにくい
中途半端な日が真ん中になってしまうので、その辺はヨシという事で。
また、この日6月30日は、大祓(おおはらい)の日で、日本の神道儀式の祓の1つと
なっています。祓は浄化の儀式として宮中や神社で日常的に行われていますが、
特に天下万民の罪穢を祓うという意味で大祓と言われるようです。1年のうち、
毎年6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われるものを恒例と
しているようで、正に大きな区切りの日となっている事は間違いないかと…。
早いもので2016年も、半分が終わろうとしているのですね。年初に立てた今年の
目標、覚えていますか? 明日から7月…夏本番ですよ。そんな折り返し点となる
今日の前日、昨日は、月初めに受けた健康診断の結果が出てきて、メタボ判定は
免れたものの、内臓脂肪が多いとの指摘…(-。-;…を受け、慌てて原因と対策を
調べたりしました。
思えば年初の目標は、もう何年も『減量する!』…。分かっていても、足腰が
弱ってしまうと、運動もままならず困ったものです。…で、内臓脂肪の原因と
対策を調べて思ったのは、変わらない生活習慣であったような…。うーん、
歳と共に増えていく様々な病気は回避したいけれど、生活習慣を仕切り直すのも
至難の技…。
とりあえず、今週末は、家内も里帰りして時間を持て余すので、お酒でも
呑みながら、これからについて考えてみたいと思います。…って言うか、
このお酒を呑みながらってのが、1番良くないんですよねぇ…f^_^;)
まずは連続飲酒の中にハーフタイムを設けたいところです…
あのトイ・ストーリーやファインディング・ニモを製作したピクサーの
『インサイド・ヘッド』という映画をつい先日、今更ながら・・・見させて
頂きました。
頭の中に存在する5つの感情たち…ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、そして
カナシミが、主人たる人間の感情をコントロールしていくというお話。主人公の
誕生や成長と共に生まれた彼らが、彼女を守り幸せにするために日々奮闘して
いきます。
考えてみれば人間は小さな細胞の集まりで、その集まりに動かされている
ロボットのようなもの・・・。そんな事を改めて自覚させてくれ、何とも
超現実的で複雑な感情もわきながら、面白く見させて頂きました。
主人公を悲しませることしかできない「カナシミ」の存在が、見ていくうちに
『要らない存在』に見えてきて、ヨロコビがカナシミを置き去りにしてしまう
シーンなんぞは、そうだそうだと思ってしまう大人気ない私…。
第88回アカデミー賞、第43回アニー賞、第73回ゴールデングローブ賞他数多くの
タイトルを手にした同映画は、大人でも楽しめる娯楽作品となっていました。
そう言えば、お邪魔だと思っていたカナシミの役割も後半でしっかり設けられて
おり、必要な感情達の意味も教えられていきます。エンディングでは、それまで
周りにいた人達の脳の中にも進入し、同じように5つの感情達が奮闘していて、
久々に心底笑える娯楽アニメ映画となっていました。
ちなみにカナシミによって流される涙は、ツライ思いを洗い流し、よりヨロコビを
大きくして気持ちを切り替えさせてくれる、そんな大切な役割があったようですね。
そりゃあヨロコビばかりでは、ありがたみも無くなります。
1つのアニメでありながら、考えさせられる事もあり、心に響く作品となりました。