ひとりぼっち?
かつて 静かな ひとときが 恋しかった
でも 静かな ひとときが ずっと続くなんて・・・
言葉を発しても 何も返ってはこない
声を出す必要も なくなってしまった
見えるものは・・・・・・・・・
たしかに 見えるものはある
でも 手にとることができない
広い世界に たったひとり 放り出されたようで
存在することさえ 苦しくて 悲しくてたまらない
自分が生き続けることに 何の意味があるのだろう
そう もう 何の意味もない
ここにいて 空気を吸うことも
迷惑なんだと思えてしまう・・・・・・・・
そう・・・思えてしまう・・・
いつまでも静かな一時が・・・
どこまでも・・・どこまでも・・・
ひとりじゃ生きてゆけない・・・
『聞こえる? 語りかける言葉が』
ふと気がつくと・・・
風の音・・・
虫の鳴き声・・・
鳥のさえずり・・・
生きているのは人だけじゃない・・・
人がいなくても自然の仲間がいる・・・
人だって またやって来る
たまには 動かない静かな時間も大切だよ
貴重な時間でしか知る事のできないものを
確かな自分の心に刻んでいこう
休んで 力を蓄えて 歩きたくなるその時を
あせらず 投げ出さず 待ってみよう
力や助けを求めている生き物の為に
貴方の心を活かして行こう
詩集『道しるべ』より
しあわせの法則
しあわせの法則?
そんな良い法則があるのか?
それでも逆のケースなら・・・
不しあわせの法則
何で、こんなに痛い?
何で、こんなに悲しい?
何で、こんなに辛い?
何で、こんなに苦しい?
何で、こうもうまくいかない?
解決できない事の言い訳を探してしまう…
つまり、こういう事?
しあわせの法則
これぐらいの痛みで良かった、命の尊さも再確認できる
この悲しさが、私を優しくしてくれる
この辛さが、私を強くしてくれる
この苦しみが、私の思いやる気持ちを深くしてくれる
うまくいかないことで、考える力が深くなる
良い結果を探して、前向きになる事…
時間に追われないこと
人の言うことを鵜呑みにしないこと
人との別れを引き留めないこと
存在する全ての「もの」との別れを引きずらないこと
別れは自分の心の成長と関わりがあるので、
より自分にふさわしい人との出会いの為のイベントにすぎない
良い回転を自分から作って行かなければ
二度とない人生だから、
幸運は、待つのではなくて、引き寄せていきたい!
まずは、次の一歩、
今、その一歩から
詩集「道しるべ」より
『寒い夏』 作詞:竹内まりや
始まりは 何気ない
僕の小さなひとこと
いつもと同じ様な
木曜日の朝 君は出て行った
主を失くしたティーカップ
塩素の匂いの水着
はるか遠い夏の
あの笑い声を 思い出してる
心はまだ16のままだと言った
ふたりだったのに・・・
大人になると みんな
話し方を忘れてく
やがて いつか
青い鳥がいないことに 気付くよ
覚えておいて
取り戻したいものは
若さや時間じゃなくて
僕の窓に灯り点す 愛しい人
いつでもそばに寄り添っていた 君だけ
おかえり 今すぐ
ひとりじゃ生きて行けない
Life is meaningless if you’re not here with me…
(※山下達郎さんのアルバム「僕の中の少年」より)
いよいよ9月も2週目に入りましたね。今年の夏は猛暑には慣れてきてしまった
せいか、はたまた気持ちがオリンピックに持って行かれていたせいか、さほど
激しい暑さに弱った感じはなかったのですが、とにかく激しい台風が多く感じた
事と、それが重なってか、蒸し暑さを非常に感じていました。
また大型台風がやって来ていますが、早く落ち着いて、食欲の秋、芸術の秋、
スポーツの秋を迎えていきたいものです。特に食欲の秋・・・ですかねぇ・・・
『ささいなことだけれど』
目があって良かった
おかげで貴方を見ることができる
耳があって良かった
おかげで美しい鳥のさえずりが聞ける
口があって良かった
おかげで喜びを声で伝えられる
手があって良かった
おかげで手を繋ぐことができる
足があって良かった
おかげで何処へでも行ける
痛みや悲しみ、苦しみだって
きっとより大きな喜びや
幸せを感じるためにあるんだね
ささいだけど
何不自由ない身体と
感じられる心があって良かった
だけど世の中には
弱い生き物や不自由な人・・・
助けを求めている命が沢山ある・・・
だから・・・
ささいな力でも、
自分の満足だけに終わらせず、
周りに活かすことも忘れたくないね
ささいな力でも、
集まれば大きな力になる事を、
私達は知っているから・・・
詩集「道しるべ」より
『インディアンの教え』
子どもたちは、
こうして生き方を学びます。
批判ばかり受けて育った子は、
人をけなすようになります。
いがみあう家庭で育った子は、
人と争うようになります。
恐れのある家庭で育った子は、
びくびくするようになります。
かわいそうだと哀れんで育てられた子は、
自分が哀れな人間だと思うのようになります。
ひやかしを受けて育った子は、
はにかみ屋になります。
親が他人に対して嫉妬ばかりしていると、
子どもも人を羨むようになります。
侮辱したりけなしたりされて育った子は、
自分に自信を持てなくなります。
励まされて育った子は、自信を持つようになります。
寛大な家庭で育った子は、我慢することを学びます。
ほめられて育った子は、
感謝することを学びます。
心から受け入れられて育った子は、
愛することを学びます。
認められて育った子は、自分が好きになります。
子どものなしとげたことを認めてあげれば、
目的を持つことの素晴らしさを学びます。
分かち合う家庭で育った子は、思いやりを学びます。
正直な家庭で育った子は、誠実であることの大切さを学びます。
公明正大な家庭で育った子は、正義を学びます。
やさしさと、思いやりのある家庭で育った子は、
他人を尊敬することを学びます。
安心できる家庭で育った子は、自らを信じ、
人をも信じられるようになります。
和気あいあいとした家庭で育った子は、
この世の中はいいところだと思えるようになります。
この詩は、日本では長い間「インディアンの教え」として広まっています。
ところが、最近出版された「Children Learn What They Live」 by Dorothy
Law Nolte and Rachel Harrisという本によると、これはインディアンの教えとは
関係なく、Dorothy Nolteという人が1954年に書いたものだということでした。
彼女自身が、「なぜか日本では翻訳時にインディアンの教えと訳されたため、
そのまま広まってしまった。」と記しています。
Nolteさん曰く、愛とは心の中から湧き出、人から人へと流れのように
伝わっていくものであり、宝や持ち物のように探し求めるものではないとのこと。
原文では、子どもがお互いをおろそかにせず、いたわり合えるような環境で
育てば、子どもは、これから旅立とうとしている世の中を肯定的に捕らえ、
希望を持つことができると言いたかったとしています。
自分が育った環境・・・親としての子供への接し方・・・考えさせられます・・・
『カラスのカーちゃん』
傷ついたカラス
車に潰されたように
両足がつぶれて
歩けない…
まるで、引きちぎられたように
翼の半分がなくて
飛ぶこともできない…
道端でもがいているところを
拾われた…カラスのカーちゃん
止血して、床を作って
それでも、怖がるばかりで
何も食べようとしない
みるみる弱っていくカーちゃん
時々、ビクッとしたり
眠りに入ったり
足がないと、内臓で
身体の重みを支える事は出来ない…
仕方なく、雛にやるように
鋭く固いくちばしをこじ開けて
すり潰した餌を与えた…
しばらくすると、苦しそうに吐き出す
お腹で身体を支えているからか…
手の中で柔らかく包もうとすると
鋭いくちばしで攻撃してくる
それでも、痛みに耐えながら
「大丈夫だよ」と抱きしめた…
その時だった…
「なんで、攻撃しているのに…」と
不思議そうに見つめるカーちゃん
「賢いカーちゃんだぁ」
そう、つぶやいて再び抱きしめた
それからは、攻撃される事はなくなった
床は、出来るだけ身体全体で重さを分散するように作り直した
手の空く限り、抱きかかえて過ごした
一緒に寝てしまう事もあり、そんな時は、身体を私に預けて眠っていたカーちゃん
いつしか、わずかの会話ができるようになった
「お腹すいたぁ」
「おトイレしたい」
「眠たい」
ちょっと離れる時間が長いと
排泄した便などで、お腹一体、濡れて汚れてしまう…
そのまま放置すれば固まって、弱った身体を傷つける…
病院に連れて行っても、迷惑そうに見たあげく、無理だと言われた…
足もないのに歩こうとして、付け根は腫れ上がって…
翼がないのにバタバタして、また傷ついて…
そうして3ヶ月が過ぎていった、ある日の朝…
カーちゃんは力尽きて…永遠の眠りについた…
不思議に安らかな顔に見えた…
カーちゃんは、信頼を教えてくれた…
カラスだから、みんな、変な目で見たけれど…
もっと、鳥を助けられる病院があったなら…
カーちゃん…天国行けたよね…
ありがとう カーちゃん
詩集「道しるべ」より
動物を傷つけてしまう人がいるけれど・・・
動物に力を貸せる人もいてくれる・・・
まだまだ、世の中捨てたもんじゃありませんよ。
無言の会話
君は おしである
そして 私も おしである
君と二人きりで 話がしたい
時のたつのも忘れて・・・
だが 聞こえてくるのは
耳ざわりな騒音ばかり・・・
君は いつも 微笑んでいる
そして 私も 微笑んでいる
君と二人きりで 話がしたい
時のたつのも忘れて・・・
だが・・・聞こえてくるのは
他人の甘いささやきばかり・・・
君は いつも 私を見ている
そして 私も 君を見ている
不思議と 見えるものは 君だけ・・・
時のたつのも忘れて 私たちは見つめあう・・・
そう 私たちに見えるものは
私たちだけなんだ
耳も口もいらない
ただ 見つめ合う瞳さえあれば・・・
その瞳で 今も
君は 私を見つめている
そして 私も 君を見つめている
詩集『道しるべ』より
お母さんが鏡に向かって パックをしています。
五歳の太郎君がそれを見て・・・
「ママ、何をしているの。そんなドロドロしたものを顔に塗って」
「これはね、ママの顔を美しくするためよ」
「ほんと。きれいになるの」
「そうよ」
パックをはがしている母親の顔をじっと見ていた太郎君が叫びました。
「あっ、ママ、失敗だったね」
太朗君の一言で、あくる日からお母さんは、パックをやめました。
もし、太郎君が「あっ、ほんとだ。大成功だ」と言ったとします。
お母さんは、毎日、せっせとパックにいそしむことでしょう。
・・・これは、「 ママ ぼくを ダメにしないで 」至上館出版より
抜粋させていただきましたが、社会人になった私達にも、こうした
『ちょっとした一言』でも相手に与える影響の大きさが
計り知れない事を知っています。
人によってその時の心や身体の在り方は違いますし、投げかける側も、
忙しい時や、体調不良のときなど、ゆとりのない時は、特に言い回しに
気を配る事ができないものです。
相手を『思う気持ち』、その思いが持てるような『ゆとり』を持っていく事、
どちらも、しっかり手にしていきたいですね。
今日7月28日は、第一次世界大戦開戦日。
1914(大正3)年のこの日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が
始まりました。三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景として
起った世界的規模の大戦争で、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露・仏・
英と相次いで開戦。その後、同盟側(トルコ・ブルガリアが参加)と協商側(同盟を
脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加)との国際戦争に
拡大しています。最後まで頑強に戦ったドイツが降伏したのは1918年11月。翌年
ヴェルサイユ条約によって講和成立しました。
ことの発端は、オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナントが
セルビア人学生ガブリロ・プリンチップに暗殺された「サラエボ事件」です。
1914年当時、日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にありました。開戦に際して
イギリス政府からの要請を受け、連合国側として1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を
布告し連合国の一員として参戦し第一次世界大戦に参戦したのです。
当時の内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にも
かけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において
要請から36時間後には参戦の方針を決定しました。大隈の前例無視と軍部軽視は後に
政府と軍部の関係悪化を招くことになりました。
日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行いました。日本政府が
参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれましたが、結局ドイツが無回答の
意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告したのです。
日本からオーストリアへ(地理的なセンタ)の直線距離(航空経路)は9155キロです。
こんなに遠くの日本が参戦したのは、日英同盟を結んでいたから…。
要請を受けてから、御前会議なし、議会における承認も軍統帥部との折衝もないまま、
緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定…。昨年の安保法案の決め方を
思うと、また、こんな愚かな事が起こらない事を祈るばかりですが、先日の選挙を見れば
自民が圧勝…。故大橋巨泉さんの訴えが聞こえてくるようです…。
昭和20年(1945)8月15日に第二次大戦が終結し終戦記念日となりました。
昭和57年(1982)には、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが
閣議決定されています。
殺す側も殺される側も、正当化されてしまうような戦争。老若男女関係なく無差別に
殺戮が行われるテロを憎む人は多いけれど、理由付けして行う戦争だって、やっている
事が同じに見えるのは私だけでしょうか…。
どうかまた同じ過ちを繰り返しませんように…。
箸の気持ち
私なら米粒一つだって簡単につかめますよ
外食ではスプーンやナイフの為に、隅に残ったご飯が
心に引っかかったことがありませんか
スープは苦手ですが、他は全て自由自在
・・・だったはず・・・
なのに、今では残った米粒一つの為に私を使える人が殆どいない
思えば米粒さんも可哀想・・・他の食べ物だって・・・
掴んで欲しいのに、スプーンの様にすくったり、フォークの様に突き刺したり
ひどい時は、かたい物を強引に横で押し切ろうと・・・
短い命の仲間はたくさんいます・・・使い捨ての仲間も
目的に合わせているのだから仕方ないでしょう
でも・・・
私らしく使って欲しい・・・
何年もすり減っても使ってくれた昔のように
私が口に運べる物も大切にして欲しい
中には私を、ペットの様に持ち運んでくれる人もいる
大切に洗い、寝床で眠らせてくれる人もいる
そんな事まで望まないけれど・・・箸らしく活かされたい
私の能力を最大限引き出してもらえたら・・・どんなに幸せだろう
またいつか、箸置きという枕の上に、2本で一対の私を横たわらせて…
大切な人のおもてなしが出来ますように…
詩集「道しるべ」より