7月28日のカンブリア宮殿、『産廃業からリサイクル企業へ大変身!~絶体絶命から
会社を変えた2代目女社長の格闘記~』御覧になられましたか?
埼玉県・三芳町で近隣から人を集める自然豊かな公園『里山テーマパーク』。
散策するだけで色んな生物に出会える里山は、ミニSLや水中生物の観察イベントも
開かれる家族連れに人気のスポットになっています。
そんな産廃業者の回の映像とは思えない場面から今回は始まっていました。もともと
ゴミが捨て放題の雑木林を公園に生まれ変わらせたのが、隣にある廃棄物を様々な
ものにリサイクルしている石坂産業。毎日、各地から産廃を山積みにしたトラックが
行列を作る企業なのに、地元に愛される企業となっていました。
分別すれば再資源化できますが、その手間を惜しめばゴミとして埋め立てられるしか
ない産業廃棄物。石坂産業では、誰もが嫌い、不法投棄が多い土砂ゴミも含めて、
なんと95%減量化・リサイクルし、売れるヒット資源に変えていました。木材の
廃材はフカフカの牧場用の敷き藁となり屋根瓦は床材に生まれ変わります。
石阪産業が業界で人気の理由のひとつは、社長が力を入れる“おもてなし”にありました。
暑い日には飲み物やキュウリの漬け物が配られ、時には、景品大会まで開かれます。
トラック運転手からも地元からも評判のリサイクル会社・石坂産業は、冒頭の公園の
映像とともに、これまでの産廃業者とは、全く違うものでした。
1999年に起きた「所沢ダイオキシン問題」。所沢の農家が、言われなき報道で
大打撃を受けたこの問題…農家の怒りの矛先が向かったのが、汚染源と言われた
周辺の産廃業者。「この地域から出て行け!」…当時、業界で最先端の焼却炉を
導入するなど、そのまま海に捨ててしまうのでなく、環境問題に立ち向かい
リーダー的存在だった創業者のお父さんは、この問題に立ち直れないほどの
ショックを受けました。
その父を助けようと社長就任を申し出たのが、当時、30歳だった娘さんでした。
社長に就任すると、地元に愛される会社を目指して、40億円かけて、完全に
屋根で密閉され、ほとんど埃を出さないプラントを建設。廃棄物をリサイクルする
ことにこだわったビジネスへと転換し、半年で社員の4割が辞めていく劇的な
意識改革を断行しました。
地域の迷惑施設と言われた会社は、ゴミを燃やす焼却処理から撤退し、清潔で
環境にやさしい日本屈指のリサイクル企業に生まれ変わらせたのです。そして、
本社の隣に里山を保全する公園まで作り上げ、地元に愛される会社に育てました。
父親の環境への思いを胸に、更に企業を劇的に変えた女性社長の金言は…
『他がやらない技術に特化すれば差別化できる』
でも、一番はやっぱり、父親の環境問題への『思い』に強く共感できたから・・・
だからこそ成しえた気がします・・・
タコの足の数が8本あることから、広島県と三原観光協会が記念日と定めて、
1996(平成8)年から、今日この日に『タコ供養』を行っているそうです。
日本ではタコは食卓を飾る一品として欠かせませんし、私にとってタコ焼きは
大好物でもありますので・・・
ちなみに、自宅にタコ焼き用の鉄板も持っていて、たまにタコ焼きパーティーを
したりしています。
見た目は気持ち悪く、炭を吐いたり、吸盤や足でまとわりついてくるので
そんな事があってか、ヨーロッパや中東ではデビルフィッシュ(悪魔の魚)と
されているとのこと。
追伸…今日は、時間がなくて手抜きのアップですみませんでした…。
タコの手でも借りたい気分です・・・。
2016年度予算案の防衛費が5兆541億円となり、初めて5兆円の大台を超えた・・・
そんなニュースが流れていたかと思えば、年金積立金管理運用独立行政法人が
5兆円を超える運用損失ですと・・・安倍政権が発足する前の2012年度の
軍事費に戻すだけで財源は3,403億円生まれて、保育士の賃上げ月5万円にかかる
2,800億円にまわしても603億円ものゆとりがある・・・
防衛費は、前年度に比べ740億円の増加で、他の歳出と比べても優遇ぶりが際立ち、
海外主要メディアは、いずれも、第2次安倍政権が2012年12月に発足して以来、
4年連続での増加となることを記事の始めのほうで言及していました・・・。
防衛費の増額は安倍政権の傾向だと示しているのです。AP通信は、安倍首相が
『10年間続いた減少傾向を2013年度予算で終わらせた』としています。
2015年における世界の軍事費動向をまとめたレポート「Trends in World military
expenditure 2015」では、2015年の世界全体における軍事費総額は1兆6760億米ドル。
もっとも多い軍事支出を計上していたのは勿論アメリカ合衆国で5960億ドル、
次いで中国の2150億ドル、サウジアラビアの872億ドルが続いています。
日本は8位で、防衛費だけなのに韓国よりも多いのですよね・・・
米軍思いやり予算(在日米軍駐留経費)では建設される米兵用の住宅が・・・
1戸約6,200万~9,700万円なのに、震災による被災者向け公営住宅は
1戸当たりの建設予算が238万7000円を上限に予算が組まれていました・・・
第3次内閣改造の目玉となった稲田氏防衛相起用も気がかりだし・・・
東京都の退職したM氏も全くおかしな金銭感覚でしたが、お国のA氏は金銭
だけでなく色々と如何なものか・・・
それも着々とおかしな方向に進めている気が・・・
『愛を積むひと』は2015年の日本の映画ですが、原作はアメリカのエドワード
・ムーニー・Jrの小説「石を積むひと」で、日本用に再構成されたもの。
佐藤浩市と樋口可南子が夫婦役を演じていますが、2人の演技も素晴らしいもので、
北海道で第2の人生を送る熟年夫婦の愛と絆を描いた感動の映画です。
東京の下町で営んでいた工場をたたみ、豊かな老後を求めて良子(樋口可南子)の
望む北海道に移住してきた2人。ガーデニングや内装アレンジなど、充実した毎日を
楽しむ良子に対し、仕事一筋だった篤史(佐藤浩市)は暇を持て余すばかり。
そんな夫を見かねた良子は、篤史に家の周りの石塀づくりを頼みます。心臓を患い、
良くない状態である事が分かりながらも、夫の事を思い病状を明かさない良子。
ところが、良子の持病である心臓病が悪化し、篤史の願いもむなしく亡くなって
しまいます。
妻の死に絶望し、生活も荒んで心を閉ざした篤史でしたが、彼女が死の直前に
綴った自分宛の手紙を、ふとしたきっかけで見つけます。良子は、自分が亡く
なった後の夫の事を思い、前に進めるように手紙で後押ししてくれたのです。
打ち込めなかった石塀にも、手紙を読んだ事で心が込められるようになり、周囲の
人々や疎遠だった娘との関わりも取り戻していきます。
映画の中で重要な役割を果たしていた手紙は、アルバムに入れられた1通、それと
アルバイトに来ていた青年の彼女に預けられた1通。それから父である篤史から
娘に宛てられた1通。
小さな町工場の仕事だった為に結婚当初から決して裕福ではなかったので、結婚
記念日には毎年『1粒の真珠』を奥さんにプレゼントしていた篤史。1年に1粒だから、
これまで溜まってきた真珠も不揃いで、色も形もバラバラ。それでも、年を重ねる
事で、1つの味わい深いネックレスになっていくという…素敵な話。こんな結婚
記念日のプレゼントも良いなぁと感心してしまいました。
物語では途中、これまでためられてきたネックレスになりかけの真珠が盗まれて
しまうのですが、後半では疎遠になっていた娘に送る手紙の中で重要な役割を
果たしていきます。詳しく説明したいところですが、是非見て欲しい映画でした。
物の豊かさではなく、人の温かさと語らぬ想いを感じられた、素敵な映画でした。
大相撲で31回の優勝を果たし、相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞した元横綱・
千代の富士の九重親方が、7月31日午後4時頃、すい臓がんのため東京都内の
病院で亡くなりました。61歳という、まだまだ平均寿命からは程遠い若さでした。
1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士として、第一号の新入幕を果たし
二日目には幕内初白星を元大関大受から挙げますが、相撲の粗さが元で5勝10敗と
負け越し。その後幕下まで陥落。人並み以上の奮起で帰り十両を果たしますが、
以前から課題だった先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から
来る肩(左肩)の脱臼が顕在化します。
取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたために左肩へますます負担が
かかり、度重なる脱臼に悩まされました。このため、2年間を十両で過ごすこと
になりますが、元NHKアナウンサーの向坂松彦はこの頃から「ウルフと言われる
鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と話されていたそうです。
1981年1月場所は快進撃で、若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝を
記録。そして迎えた千秋楽、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えました。
本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、優勝決定戦では、あの北の湖を
右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たしました。
場所後に千代の富士の大関昇進が決定しましたが、千秋楽の大相撲中継視聴率は
52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも
大相撲中継の最高記録となっているそうです。
新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで
優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って
14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴みました。非常に劇的な瞬間に、
千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が
決まった瞬間手で涙を拭ったそうです。
横綱推挙の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたましが、これを「横綱2人分
(千代の山+北の富士=『千代の富士』)のいまの四股名の方が強そうだから」
と固辞しました。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、
北の富士からの配慮で先代九重親方の未亡人が同席していました。
千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われましたが、
「気力・体力の限界」と話された緊急記者会見で現役引退を表明された時は、
本当に涙無くしては見られないものでした。何度となく怪我に見舞われながらも、
ウルフらしい豪快な相撲で楽しませてくれた「小さな大横綱」は、歴史に名を
刻み体中を傷だらけにして相撲人生を終えました。
ウルフと呼ばれた大横綱、私も大ファンでした。
もう、千代の富士の様な横綱は誕生しないだろうと思っています。
遅くなりましたが、 在りし日のお姿を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。
7月26日放送のガイアの夜明け
『自分の力で歩きたい...~患者を救う"極めた技術"~』をご覧になりましたか?
「技術は人に奉仕するためのもの」...創業者本田宗一郎の意思を継ぎ、ホンダは
培ってきた技術を医療の分野で発揮しようとしていました。プロジェクトリーダーの
伊藤寿弘さんは、伝説のレーサー、あのアイルトン・セナのマシンを手がけた、
元F1チームのエンジニアです。
全く違う部署からの配属ですが、彼のチームが開発しているのは、病気や障害で
歩行が困難な人をアシストする機器の開発チーム。腰に装着し、足の振り上げ
・蹴り出しを誘導していきます。
冒頭から杖が無いと歩けない人が、歩行アシストを20分程使って訓練すると、
自力で歩行できるという映像が見せられます。奇跡でした…。本人の笑顔を
見れば一目瞭然の画期的な、夢の様なリハビリ機器です。
「より速く、より小さく、より軽く」というF1の使命を背負ってきた伊藤さんたち
開発チームは、歩行アシストのモーターや制御基板を小さく軽くすることを実現。
更に「テレメーター」という、走行中の車とピットのコンピューターを通信で繋ぐ
システムを採用。人型ロボットのアシモ君の歩行技術など、様々な技術の結集です。
そんな中、新たな課題として上がってきたのが...「歩行アシストを子どもにも
使えないか」という要望です。障害を持つ子供が自力歩行できると、より筋力が
高まって寿命が延びるのではと期待されています。
大人の場合は、過去に歩いた経験のある人だったので、記憶を取り戻す流れでしたが、
生まれた時から、正しい歩き方を経験していない子供に対しては、歩き方そのものを
歩行アシスト機器を通して掴んでもらう必要もあります。
実際に歩行アシストでリハビリを受けるのは、車イスか杖が無ければ自力移動できない
小中学生たち。番組でも1人の少年を取り上げて密着していきますが、その効果は、
大いに期待できるものでした。
筋肉を使わないまま年齢を重ねてしまうと、骨の成長に対して萎縮したままで硬化し、
高校を卒業する頃には全く歩けなくなるケースが多いという話ですから、本当に
夢のようなアシスト型機器です。
「技術は人に奉仕するためのもの」
本当に素晴らしいDNAです。
今日7月28日は、第一次世界大戦開戦日。
1914(大正3)年のこの日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が
始まりました。三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景として
起った世界的規模の大戦争で、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露・仏・
英と相次いで開戦。その後、同盟側(トルコ・ブルガリアが参加)と協商側(同盟を
脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加)との国際戦争に
拡大しています。最後まで頑強に戦ったドイツが降伏したのは1918年11月。翌年
ヴェルサイユ条約によって講和成立しました。
ことの発端は、オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナントが
セルビア人学生ガブリロ・プリンチップに暗殺された「サラエボ事件」です。
1914年当時、日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にありました。開戦に際して
イギリス政府からの要請を受け、連合国側として1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を
布告し連合国の一員として参戦し第一次世界大戦に参戦したのです。
当時の内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にも
かけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において
要請から36時間後には参戦の方針を決定しました。大隈の前例無視と軍部軽視は後に
政府と軍部の関係悪化を招くことになりました。
日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行いました。日本政府が
参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれましたが、結局ドイツが無回答の
意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告したのです。
日本からオーストリアへ(地理的なセンタ)の直線距離(航空経路)は9155キロです。
こんなに遠くの日本が参戦したのは、日英同盟を結んでいたから…。
要請を受けてから、御前会議なし、議会における承認も軍統帥部との折衝もないまま、
緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定…。昨年の安保法案の決め方を
思うと、また、こんな愚かな事が起こらない事を祈るばかりですが、先日の選挙を見れば
自民が圧勝…。故大橋巨泉さんの訴えが聞こえてくるようです…。
昭和20年(1945)8月15日に第二次大戦が終結し終戦記念日となりました。
昭和57年(1982)には、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが
閣議決定されています。
殺す側も殺される側も、正当化されてしまうような戦争。老若男女関係なく無差別に
殺戮が行われるテロを憎む人は多いけれど、理由付けして行う戦争だって、やっている
事が同じに見えるのは私だけでしょうか…。
どうかまた同じ過ちを繰り返しませんように…。
毎週木曜日に放送されている大好きな番組の1つで『世界!ニッポン行きたい人応援団』
という番組から、今回はお話したいと思います。
今回はアメリカのノースカロライナ州に住むナサニエルさんが招待客。本やインター
ネットでニッポンの伝統的な織物を目にして以来、素朴で美しい色や柄の手つむぎや
手織りに魅了されたと言います。そのハマり様は、ネットを駆使して勉強し、自ら
綿花を育て紡績するばかりか、機織り機まで購入して、日本風の藍染にチャレンジ
してしまうほど。
そんなナサニエルさんは、日本に行けたら、伝統的な織り方や染め方について本物を
ぜひ見てみたい、特に奄美大島の「大島紬」に触れてみたいというのが夢でした。
夢が叶って招かれたのは、藍染めの本場である奄美大島で、昔ながらの伝統技術で
大島紬の染めを行う金井工芸他の皆さん。
大島紬は、糸を染める前から決められた図柄に合わせて、染めるための編み込みを行い、
編み込んだものをトコトン染めていきます。絣(かすり)むしろと呼ばれる絹糸の束を、
車輪梅というバラ科の樹木の染料で染めたあと、泥田につけます。すると、泥の鉄分と
車輪梅のタンニン酸が反応して色が変化し、大島紬独特の黒色に染まるのです。
染めが終わるまでの気の遠くなるような作業。これを泥染めと言い、染めた後は不純物が
出なくなるまで川で30分以上もみ洗いして、やっと泥染めが完了。この後、染めない
部分を縛っていた木綿の糸を解いて、やっと一本の糸に。
緻密に糸を一本ずつ染め分けるには大変な苦労がありますが、機織り機で寸分の狂いも
なく大島紬を織っていく作業も気の遠くなる作業でした。職人さんでも一日たった
20cmしか織ることができず、一反約12.5メートルを織るのに、なんと3ヶ月もかかり、
高度な染めの物は3000万円を超えるとか…。一本一本の糸を染めていくため、何と
リバーシブルで使える優れもの。日本人でありながら、知らなかった事ばかりの
1時間でした。
日本の文化に魅せられて、思いを寄せてくれる海外の人が居てくれることに感謝し
同じ日本人として誇りに思い、改めて日本の素晴らしさに気づかせてくれる・・・
そんなこの番組が長続きしてくれる事を願っています。明日28日は和菓子に惚れた
外国人が招かれるようで、これもまた今から楽しみです。
1825(文政8)年、江戸の中村座で「東海道四谷怪談」が初演されました。
東海道四谷怪談(通称「四谷怪談」)は、浪人民谷伊右衛門に毒殺された妻
お岩の復讐話で有名ですよね。
不義密通をはたらいた男女が殺され、戸板に縛られ神田川に流されたという
実在の事件をヒントに四世・鶴屋南北が作った話です。
夏と言えば怪談話ですが、日本の怪談話は、海外のものに比べて、ドロドロ、
ジメジメしていて、見た目の怖さというよりも、深層心理に染み渡るような
重~い怖さ…ですよね。
でも、最近の若い人たちは、この『四谷怪談』や『番町皿屋敷』『牡丹灯籠』
と言った『日本三大幽霊』が登場する怪談を知らないという人も出てきています。
若い人は、『リング』とか『螺旋』とか『トイレの花子さん』?ですかねぇ…
さて、せっかくの幽霊の日なので、怪談話を一つ・・・
『悪の十字架』
それは、となりの町のできごとだった・・・。
夜遅く、男の子がお腹がいたくて目が覚めたんだ。
そして親を起こして、泣いて腹痛を訴えた。
5キロ離れた所に古びた小さな病院があったな。
・・・父親はそう思った。
そして、自転車の後ろに息子を乗せ、
懸命にこいで病院にたどり着いたんだ。
ドンドンドン!!
あけてください! 子供が腹痛で泣いています。
お願いします!
ドンドンドン!!
すると、ドアが開き、中から年老いた女の人が現れた。
こんな真夜中に、どうしましたか? 先生はおらんよ。
明日またお出でなさい。
明日は何時にあくんですか?
10時にあけますよ。
そうか、あくの10時か・・・。
あくのじゅうじか・・・
悪の十字架・・・
今日は、1933年 山形市で40.8度の最高気温が記録された事を記念して作られた
『最高気温記念日』でだそうですが…気象庁で過去の記録を調べてみると・・・
・・・ということで既に記録は打ち破られていて、今後も地球温暖化とともに
ますます上昇し更新されていく事を思うと、この記念日の意義が分からなく
なってしまいます・・・
1933年の頃の記録は、異常気象で済んだ話も、これからは通常気温となって・・・
・・・とは言うものの、東京近辺は、今年はまだ、それほど暑くもなく、
そうした点では救われているものの、水不足が気になり始めているので・・・
なんとも上手く行かないものです・・・作物も、これで高値にならないことを
今から祈るばかりです・・・