私の履歴書、2月12・19日と2日間に渡って放送された『安部修仁 』の回ご覧になられま
したか?安倍晋三では、ありませんよ。安部さんは“ミスター牛丼”とも呼ばれる、吉野家
の礎を築いた豊富秀吉の様な?カリスマ経営者です。
1949年、福岡県で豆炭の製造会社を営む家の次男として誕生。父と兄を幼少期に亡くして
しまうものの、跡継ぎにはならず、音楽に夢中になって高校卒業後はプロのミュージシャ
ンを目指して上京していきます。働きながら音楽活動を続ける生活の中で、アルバイト
情報誌で見つけた吉野家の面接を受け働くことになっていったのです。
半年で店長代行を任されると、会社から正社員にと誘われます。1972年、正社員となり
「築地店」で初代社長の松田瑞穂から徹底的にノウハウを叩き込まれると、23歳で
「新宿東店」の店長に抜擢され、実績を上げると、更にスーパーバイザーに就任してい
きます。
その後、1980年に会社が倒産の危機に陥って会社更生法が適用されると、再建への道を
歩み始めます。倒産からわずか7年で再建を果たすと、この功績を買われた安部さんは
40歳で常務、そして1992年には42歳で社長に就任することになります。 2001年、マクド
ナルド等外食産業の値下げ競争が勃発する中、吉野家も価格を3割下げた牛丼並盛280円で
挑戦を続け、この年、吉野家ホールディングスは過去最高の営業利益を上げます。
ところが、2003年12月にはアメリカでBSE感染牛が検出され、日本ではアメリカからの
牛肉輸入を休止、吉野家の本来の牛丼が提供できなくなるならばと、他者がオーストラリ
ア産に切り替える中、牛丼の販売を休止するという大胆な決断をくだします。2004年2月
からは、牛丼単品経営だった吉野家が、牛カレー丼、豚丼や後の大ヒット商品の前身である
牛鉄鍋膳など新メニューを導入し、何とか半年後には牛丼なしでも黒字を達成することが
できるようになります。
苦境に耐える中、牛丼が大好きだったという息子を亡くしたお母さんから励ましの手紙と
200万円という高額の寄付をいただいことが大きな心の支えになっていたそうです。販売
休止から4年、2008年3月にようやく牛丼の24時間販売を再開すると、安部さんは苦しい時に
いただいたお母さんの手紙のコピーと寄付してもらったお金を従業員みんなに配ったそう
です。素敵な話です。
そんなハートのある安部さんだからこそ、様々な苦難を乗り越える事が出来たのでしょう。
副業としてのアルバイトから始まって社長となり、再建や倒産の危機も乗り越えてきたの
ですから人間、どんな未来が待っているか分からないものです。ただし、棚ボタ式に上に
上がっていくのではなくて、凄い人は若い頃から、まじめに努力し、何かしらオーラと
強い気持ちがあったのではないでしょうか・・・。