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異国の地で悪魔の伝染病と闘った日本人…

2017-2-14 NEW!
カテゴリ:つぶやき

 

またまたテレビ番組の話ですが、第二次大戦直後のドイツで悪魔の伝染病と言われる発疹

チフスとの闘いに力を尽くし、若くしてこの世を去った医師・肥沼信次のお話…「ドイツが

愛した日本人~佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語~」という番組が。今月5日放送され

ました。

 

第二次世界大戦前夜の1937年、アインシュタインに憧れ放射線医学の研究者を志しドイツへ

渡り、29歳で名門・フンボルト大学への留学を果たした肥沼さん。ナチスドイツの独裁が

進むドイツで懸命に学んだ肥沼さんは、功績を認められアジア人初の教授資格を得るところ

まで来ましたが、第二次世界大戦の戦況が悪化して“アジア人初の教授資格獲得”という栄誉も

戦争の混乱の中に消えてしまいました。

 

大使館から帰国指示が出るなかでドイツに残ることを決断した肥沼さんは、ベルリンを離れ

ドイツ北東部、ポーランドとの国境に近い古都・ブリーツェンへ行きます。当時のブリー

ツェンでは発信チフスが猛威を振るっており、十分な薬もないなかで肥沼さんはチフスに

苦しむ人々の治療にあたり続けました。寝る時間も惜しみ、自宅に帰る時間すら惜しんで、

自らがチフスに感染し亡くなる2日前まで全力で人々を救おうと努力していたのです…。

 

ブリーツェンの学校を尋ねた佐々木さんは、肥沼さんに祖父の命を救って貰ったという少年、

ルイスに出会います。ルイスの祖父は5歳のときに肥沼さんにチフスを治してもらったのです。

そんなルイス君は、学校の授業でヒーローについて書きなさいと言われて、迷わず肥沼さんの

ことを書いたと言います。

 

「だって、肥沼さんは僕にとってお爺ちゃんの命を助けてくれたヒーローだから、先生が

いなかったら、お爺ちゃんも今ここにいないし、僕も生まれていなかった」と話していました。

ブリーツェン市長をはじめ肥沼さんを知る人々との出会いのなかで献身的だった彼の人柄や

医師としての姿などが浮かび上がっていきますが、本当に異国の人間が、なぜ、ここまで

というくらい…涙なくしては見られない壮絶さ・・・。

 

1986年2月、ついに肥沼さん自らも発疹チフスに感染します。気づいた看護婦が治療薬を

すすめますが、肥沼さんは治療薬を拒み「患者に使うように」と指示していました。死の

床で「故郷に帰って桜をもう一度見たい。2人にも桜を見せてあげたかった」という言葉を

遺して同居していたシュナイダーさんや看護婦に見守られる中、37歳でこの世を去ります。

 

長らく日本に伝わることがなかった肥沼さんの功績ですが、ブリーツェンの町の人々は

肥沼さんを永遠に忘れないと、お墓を作り、献花を絶やさず、子や孫に代々語り継いで

きました。東日本大震災の時も、支援金を送ってくれるほどでした・・・。

 

冷戦が終わり、ドイツ統一後の1992年、肥沼さんにブリーツェンの名誉市民の

称号を授与。探し当てた弟の栄治さんから贈られた桜の木が市内に植えられ、その桜は

肥沼さんの墓所にも。激動の時代のなか、日本から遠く離れたドイツの人々の命を救い

続けた肥沼さんの生き様は、勇気と誇りと感動を与えてくれました。

 

とても良い番組でしたので、きっと再放送されるものと思っています。

   その時は是非、ご覧ください。本当に素晴らしい人でした・・・
 

 

 

 

 

 

 

 

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