ティータイム

憎むは人の業にあらず

2015-12-7 NEW!
カテゴリ:つぶやき

 

今年の漢字を考察していて、改めて辿り着いた『憎むは人の業にあらず』という

亡くなられた後藤健二さんが伝えてくれた言葉…

 

仏教で業そのものは、善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻

転生に伴って、意識の最も深い内側にある個の根源に代々伝えられると考え

られていて、それを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れに付随する

ものとされてきました。

 

『人は欲よりなる。欲に従って意志を形成し、意志の向かうところに従って業を

実現する。その業に従って、その相応する結果がある。』

 

今日、一般的にこの語『業』を使う場合は、(因縁・因果による)行為で生じる

罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)、不合理だと思ってもやってしまう

宿命的な行為という意味で使ったりすることが多くなっています。

今年は、この『業』を感じさせられる出来事が多かった気がします…

 

中東取材も多かった後藤健二さんが2010年9月7日に自身のツイッターの

アカウント(@kenjigotoip)で発信した「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、

怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは

神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」という書き込みの

中の一部が『憎むは人の業にあらず』だった訳ですが…

 


「(現場の人たちに)寄り添うことが一番大事」と講演の際、語った後藤さんは、

2014年7月、自身のブログで、若くして命を落とした紛争地域の友人たちに

ついて、こう語っています。

 

『なぜ、彼らは死ななくてはならなかったのか?希望の光射す未来と無限の

才能を持っていたのに。これから好きな女性ができて、結婚して、子どもを産み、

家族を持てる十分な機会があったはずなのに。戦いに疲れ果てた人たちは

口々に言う。「死んだ者は幸いだ。もう苦しむ必要はなく、安らかに眠れる。

生きている方がよっぽど悲惨で苦しい」と。皮肉だが、本音だ。彼らは兵士でも

戦場を取材するジャーナリストでもなかった。外国人と交流して異文化を味わう

ことを楽しみ、すべての時間を市民のために自分のできることに費やし、

自分で思考錯誤しながら技術と得意分野を真っすぐに成長させて行った。』

 

心の痛み、つらさ、それを憎しみにせず『なんでこの人は自分にこういう仕打ちを

するのだろうか、どうすれば平和になるのだろうか』という冷静な目で物事の

根本を見なければ…。平常心を失った時点で自分が自分でいなくなってしまう。

だから、『憎むは人の業にあらず』は、『憎しみを持つか持たないかは因果応報 や

神の意思ではなく、自分の心次第で、裁くのは神や天のみ』と…。

 

その一人一人の心がけが世界平和や身近な争いに至るまで、あらゆる憎しみの

連鎖を断ちきるヒントなのかもしれません。そういったことを後藤さんが伝えて

くれていたと…

 

悲しいかな、その後もテロ行為は続き、それに対抗する側も、無差別に近い

状況で空爆をしてしまっているようで、とても連鎖を断ち切ることなど…

どうか、一日も早く、良い流れに変わって、良い連鎖が始まりますように…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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