ティータイム

広島東洋カープ

2015-10-15 NEW!
カテゴリ:つぶやき

 

1975年の今日10月15日 広島東洋カープが球団創設から26年目でリーグ初優勝を

果たしました。当時の広島…特に市内は、大変なお祭り騒ぎとなりました

親会社を持たない市民球団として結成されたという、他の球団と比較して特異の歴史を

持っている球団ですが、そこまでの道のりは、本当に厳しいものでした

 

1949年リーグ拡張方針を受け、9月20日、中国新聞社は「広島に広島出身者だけで

1チームつくろう」と、原爆による壊滅的被害からの復興を目指したプロ野球球団結成の

動きを報じました

 

広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも

呼ばれていたため、9月28日に球団名を「広島カープ (Hiroshima Carp)」と決定し

日本野球連盟に加盟を申請。11月28日に正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けました

 

核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、12月5日に

広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加した初代監督の石本秀一さんは

この時点で契約選手が1人もいないことを知りました

 

にわかチームとしてスタートした広島は、1950年優勝した松竹ロビンスに大差の

59ゲーム差をつけられ、さらに勝率3割に到達する事もできませんでした

 

この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝った

チームが7割、敗れたチームに3割配分していたので、当然資金を得られる

強いチームはより強く、弱いチームはより弱くのシステムだった訳です

 

そのため当初期待していた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込み

5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生しています。2軍選手に

いたっては給料が支払われたのは4月のみだったそうです・・・

 

セリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」

「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けるほど、連盟からもお荷物扱い…

 

石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石氏に任せて、自身は球団の

苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に

資金調達の必要性を訴える投稿を続けました

 

7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、石本が構想したカープ後援会は

正式に発足。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており

その結果、年末までに400万円(当時)を集めています。この一件は、後にNHK

「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」としても

取り上げられましたよね

 

1952年開幕前、シーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めが

リーグの代表者会議でなされ、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため

下位の球団(広島)を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった

広島は処罰の最有力候補でした

 

この年、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率220)と最下位に沈んでいましたが

地元市民の大きな声援を受け、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で

乗り切って、勝率316(37勝80敗3分)を達成して、なんとか処罰を免れたのです・・・

 

救いだったのは、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく

興行収入の6割が主催チームに入ることになりました。これによって広島で圧倒的な

人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになりました

 

今では、カープ女子まで登場しており…鉄人として有名な衣笠や金本、江夏の21球

脳腫瘍と闘った津田、ヤンキースの高額年俸を袖にして、古巣に復帰した黒田と

記憶に深く刻まれている印象深い選手たちも、地元との一体感が培ったものかと…

 

広島出身者のみならず、ファンが出来るのも分かる気がします
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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